第二章 中国革命の夜明け前
一九〇四、〇五年(明治三十七、八年)の日露戦争は終わった。清朝時代から北辺の大熊として、清民族の恐怖の的となってきた帝政ロシアが、日本国の一撃により日本の軍門に下った。それで中国四億の民は今更に日本の評価を改めた。
日本拠(よ)る可し、頼る可し、との考えは、四億の民族の指導者の間の輿論(よろん)ともなりつつあった。
彼等の内の有識者は、日本の再認識と同時に、自国清朝帝政内部が、腐敗、堕落の上に、惰眠をむさぼっている現状の打破を、中国興隆の当面の課題とした。
これを後世の歴史家は中国革命の発端の温床と称するも、これは多少違った臭いがある。孫文はもともと理想主義者であり、革命家ではない。
謂わば時の清朝堕落政権の改革家であったように思われる。立憲共和主義者であった。
ともあれ、日露戦争終末の結果、中国有識者、青年階級の日本留学熱は、(当時の日本への留学生は一万人を超したという)、孫文の理想実現のための大きな支援となった。
又その場所となったのが日本の首都東京であったことも、東京での政治活動、交通手段及び地下運動等が、本国の北京、南京から手の届かぬ場所であっただけに、孫文の画策に大きなプラスになった事実は否めない。
もう一つの大きなプラスは、その当時、孫文に同情を寄せる日本の志士連中の、東京都内在住者が多かったことだと思う。
即ち宮崎滔天、犬養毅、頭山満、内田良平等皆東京に居を構えていた。中国革命思想の誕生は、日清戦争勃発時まで遡って考えなければならない。
日清戦争が始まったのは一八九四年(明治二十七年)の夏、八月一日である。孫文二十九歳の時である。
孫文は、清朝の時の有力者であった大臣李鴻章(りこうしょう)に、政治改革の建白書を提出している。日清戦争の国務に忙しい李鴻章は、この建白書を黙殺した。