生まれも育ちも都内人形町である。水天宮の裏に小さな家族経営のホテルがあり、その横手に、私の生家がある。

床を踏み抜くのではないかと思われる程古びており、春先には大量のシロアリが舞い飛ぶ始末だ。毎年の固定資産税を払うだけで生活が苦しく、借金は重なるばかり。

長年住み慣れた生家ではあるけれど、最早売るしかないと覚悟を決めた。何せ古さだけは誇れるが、代々物持ちが良く、江戸時代から鎮座する、たんす型の大型の金庫まである。

もしかしてもしかすると、この金庫の中には、大判小判がざっくざくかと期待し、四苦八苦の末に何とか開けてみた。

しかしあったのは古びた書類や巻物ばかり。ぱらぱらとめくってみると、その全てはご先祖様達の日記であった。

成程ねえ、金を残すような一族じゃねえやな、曾爺さんがこよなく愛したのは洋食と聞いている。

爺さんは鮨屋でもないのに朝から築地に入り浸り、旬の魚や貝を手に入れてはご満悦の恵比寿顔だったとか。親父は何故か練馬大根に目がなかった。

一年三百六十五日、大根の千切りの味噌汁を続け、私は辟易していた。

母は、貧しい中でも爪に火を灯す思いで金を貯め、年に二度の盆暮れ、その日だけは綺麗におめかしし、ホテルオークラまで出かけ、父には内緒でケーキをたらふく十数個食べ、その後は三日間絶食していた。着倒れ履き倒れという言葉があるけれど、我が家は食い倒れ、食道楽の家系かもしれぬ。

この人形町は、食に関しては地の利が良過ぎるのが嬉しい悲鳴だ。銀座も築地も近い。上野浅草は地下鉄ですぐだ。

そして、人形町には、老舗からざっかけない店から小粋な店から、旨い物を食わせる所ばかりだ。

イタリアン。中華。フレンチ。鮨。初代総理大臣伊藤博文が贔屓にした料亭。徳川将軍の料理人が開いた鳥鍋屋。すき焼き屋。定食屋。ねぎま鍋。蕎麦屋。

老舗が多いとは雖(いえど)も、肩肘張らず行ける所ばかりだ。私の生家の側には一流ホテルがあり、そこを横に入ると鰻屋がある。