はじめに

「あなたは日本人ですか?」と聞かれたら、私は多分返答に躊躇して、困るに違いない。生まれも育ちも、日本なのに、だ。

これは、よくよく考えてみると、とても珍しい事のように見える。つまり、日本人と外国人、両方の立場になって物事を考える事が出来るからだ。最初から、意図した事ではないが、これは、一朝一夕に出来上がった訳ではない。

日本国内の学校の行事では、日本の国歌、君が代と共に、フランス国家を歌い、海外に4年、日本国内でも海外の企業に30年、一度も日本の企業に勤務した事が無い。

そんな出自が、私を日本人でもなく、外国人でもない事にさせたのか?「天下国家」という程、大袈裟ではなくても、日本の行く末を憂えている人は多い。私が憂いているのは、今から100年後、300年後、1000年後の日本と日本人の事だ。

果たして、日本という、素晴らしい国が、「そういえば、そういう国があったね、でも、その国は遠の昔に無くなってしまったね」ではあまりにも残念、という他ない。

私が実際に訪ねた国の中にも、そういう国が幾つかある。例えば、東ドイツ、南ベトナム、ユーゴスラビア等々である。個人も、会社も、国も、その時々に浮き沈みがあって然るべきだ。しかし、この世から消えてしまってはいけない。特に、日本のような素晴らしい国は、である。

「近頃の若者は」と、世の風潮を憂える事は、平安時代にもあった、と聞く。いつの世にも、現状を憂える人はいるのだ。本書では、日本が1000年後も命脈を保ち、この世に存在している事を願って、エッセイ風に綴ったものである。

サブタイトルにある「とりあえずの幸せ」とは、例えば、駅で電車を待っているとする。私のような年配は、入って来た電車をさっと見て、近頃はあまりクルクルと回転しなくなった頭で計算して、座れそうな席に突進する。

席に座れれば、良かった、と安堵する。そんな事が「日本人のとりあえずの幸せ」だ。それは、その場限りの刹那的な幸せである。その「幸せ」は、はかなく、すぐに消えてしまう、とりあえずの幸せである。