私の発表の後、教授が講評を述べた。
「神のような力を得た人間が、敵が同じ力を持つことを恐れるあまり、自らの〝正義〟を過信して、執拗に人を追い詰め、〝スパイ〟を排除(パージ)する。作者は不良少年の目を通して、米ソ冷戦下の政治的熱狂である『スパイ狩り(マッカーシズム)』を非難している」
「公民権運動が本格化する前の冷戦下、共産主義者をソ連のスパイとみなし社会の各分野から排除しようとする『スパイ狩り(マッカーシズム)』は、仲間を裏切る密告を人々に強要し、植民地時代の『魔女狩り』を再現したかのような吊し上げを行った。
しかし、安全保障上の理由で行っている『スパイ狩り(マッカーシズム)』に異議申し立てを行うためには、作者にそれなりの『説得力』が必要だ」と教授は主張するのであった。
その「説得力」とは何なのか? 戦後の、平和な時代に生まれ育った者にはわかりにくい。教授によるとその「説得力」とは、「作者・サリンジャーの戦争体験にほかならない」と力説した。
若かった私は、あの時何を言われたのか、よくわからなかったが、最近になって、ようやくそれが見えてきた。
サリンジャーは、ノルマンディー上陸作戦など第二次世界大戦を兵士として戦った人であった。若かりしサリンジャーは、戦場がどんなところか、よく知らないまま、そこへ飛び込んでいったと考えられる。
自分の歩むべき道を見失った若者を戦場へ誘(いざな)う大人がいるが、実際に戦場で闘い、深い心の傷を負ったサリンジャーは─あの汚ない言葉遣いから戦地から帰国した帰還兵(ヴェテラン)たちは作者が同じ帰還兵(ヴェテラン)だとすぐにわかるらしいが─未来のある若者たちに、戦争という悲惨な体験をしないで済むならしてほしくない。
そのような願いを込めて、迷える若者に踏み止まってもらうために『ライ麦畑の捕手』を書いたのではないか。梅雨明け前、曇天続きの日の午後、Nという学生が、フラナリー・オコナーの短編を〝講読〟した。
私は要領得ないNの話は無視して、英文のテキストを先へ先へと目で追っていった。この作家独自の小説世界へ引き込まれていった。
突然、ショックを受け猛烈な吐き気を催して教室を飛び出した。しばらく化粧室にいた。少し落ち着いたので、身なりを整え教室に戻った。ゼミ生は解散して、K以外誰もいなかった。
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