【前回記事を読む】「気分が悪いの…休ませて」と彼の部屋へ。目が覚めると電気は消えていて、眠る彼の唇にそっとキスをした
アメリカ文学
都会では、正月ぐらいしか本当の静寂というものを感じない。音のない空間はどこまでも透明な底なしの湖に包み込まれているようだ。そこには建物も田畑もない。この土地の原型のような地形が、巨大な水槽の中に透けて見える。
水の中を落ちていく物体は音を発しない。重力に引き寄せられ、ゆっくり沈んでいく。深い湖を永遠に落下する物体の思いが私の心に響く。
沈んでいくその物体の速度は、誰かが心の中に抱く虚無のイメージに似ている。
地球と月の重力の恩寵(おんちょう)の中にあって、生き物もまた自力でそこにあるかぎり、そこに居続ける。
物質世界の法則に従って、生き物も創造と破壊を繰り返し、更新されていく。物質の振る舞いには、生き物のような動きをする時がある。
生き物はそれをなぞるように生きている。だが、生き物の場合、創造より破壊の方がちょっぴり勝っている。
個体としては生きたまま死へ近づいていく。そして寿命が尽きると死ぬ。資料を読む作業はだいたい終わっているが、確認のため重要な部分を読み返す。
大筋において間違いではないが、細かな箇所で修正すべき点が見つかる。
お正月が終わると、元の生活に戻る。
日常生活には苦痛もあるが、身を委ねると惰性の中に楽ができる部分がある。
大都会に出てきたばかりの頃の私は、有袋類の母親が持っているような袋状のポケットに、時々隠れるようにして生きていた。
大自然の恵みとともにある暮らしが恋しい。けれども、時たま自然から不意打ちを食らうことがある。
人間も動物も、いつ死んでしまうかわからない。
不安定の中にあって安定を維持する生活を小さい頃から送ってきた私は、生と死の狭間を掻い潜るようにして生きてきたと思う。
締切の日の前日、論文は完成した。フォーマットに従って表紙をつけ、ファイルにして綴じ、事務局に提出した。私はやっと終わったと思った。
しかし、充実した気持ちをすぐさま切り換えて、アルバイトに入った。ウェイトレスの仕事をする時、私はそれを「天職だ」と思ってやっている。店ではシェフから頼りにされている。遣り甲斐を感じる職場だ。
私は北海道出身者だ。先祖はみな開拓者で言いようのない苦労を経て現在の地位を攫んだ。
父方は会津の人だと聞いている。母方は西日本の出らしいが、どこであるかは事情があって言えないらしい。
開拓者どうしのつながりでお見合いをし、父は大牧場の後を継いだ。村では名士の一人として尊敬されている。
名士というのは人の面倒を見る人のことを言う。困っている人がいたら必ず助ける。それが家訓として代々伝わっている。
兄は父の跡を継ぐために、日々弛まない努力をしている。お見合いをして結婚し、子どもを儲けた。
兄は自分の自由意思など入り込む余地のない人生を歩んでいる。父と行動をともにし、家の事業と一体化していた。
兄は農業大学を卒業し、故郷に戻り、父の下で牧場経営を一から学んだ。父と兄の二人は、農大から派遣されたインターンの学生や外国人実習生など手伝いの人たちを使って、千頭を超える乳牛の世話をしている。
この地区全体が、将来畜産業を維持できるのかどうかは、兄の世代にかかっている。重い責任を小さい頃から背負わされている。
ある牛乳会社が戦後最大の危機に陥った時、うちの経営も苦しかったが、「苦しい時こそみな協力し助け合って苦境を乗り越えよう」と祖父が牧場経営の仲間たちの前で演説した。みなも納得し一致団結してことにあたることを誓った。
業績が回復し軌道に乗った頃、祖父は他界し、父が跡を継いだ。兄は子どもの時から祖父と父の背中を見て育った。
男たちは寡黙であった。兄は祖父と父と三人で困難と闘ってきたことを誇りに思っている。言挙げせず、弱音は決して口にしない。
開拓農民の、感動的だが紋切型のストーリーを讃えつつも、私は同時に女性が決定に参画できない男性中心の論理(ロジック)に対して、敬意を払いつつも、百パーセント受け入れられない自分が心の中にいることを知っていた。
兄は決して口には出さないが、マスコミをひどく毛嫌いしていた。
この地区が共同で牛乳を納めていた牛乳会社が、返品などで生じた賞味期限切れの牛乳を、加工品の原料として再利用した。してはならない不正行為をしたとして、マスコミは食品偽装の事実を暴いた。
しかし、その非難はとても一面的で、食品ロスという社会問題はほとんど触れられずに、不正行為を行った牛乳会社ばかりをバッシングした。
その結果、会社の経営は著しく悪化して、契約牧場の私たちもかつてない苦境に追い込まれたのだ。
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