「はい。お電話代わりました。弁護士の香原と申します。有希さんの件で誠にご迷惑をおかけしました。直接お話しさせていただきたいと存じます」

有希という言葉を聞いて心が強く音を立てる。警察署内の尋問中にも何度も出ていた名前だけど、こんな嫌な音を立てたことは一度もなかった。

「はい。俺も、話したいです」

いつも通り心にもない返答をする。

「ありがとうございます。それではこちらの事務所に来ていただくか、こちらから今岡さんのご自宅に伺います」

無意識に目を閉じる。どうして俺の心はこんなにも気味の悪い音を立てるのだろう。

「あの、有希は?」

「本当にご迷惑をおかけしました。詳しいことは直接お話しさせてください」

「そうですか。分かりました。自宅は嫌なので、こちらから行かせてください」

「ご希望の日時はございますか?」

「いつでも構いません」

有希は被害届を出した。それが虚偽だったのだから、俺は無実だ。疑問は何一つないはずだ。では、どうしてこんなに俺はうろたえているのだ?

「それでは明後日10月21日の午後5時はいかがでしょう?」

「はい。伺います」

電話を切ると、振り返って干鶴(ひづ)警察署を見渡す。有希はどこで何をしているのだろう。釈放されたという喜びは皆無だ。社会と繋がった瞬間日常に流される。自分の不甲斐なさを再認識しただけである。

青空の下、手を取り合って横断歩道を渡る年配の夫婦を横目に歩き出す。ずっと見たかった光景のはずなのに、俺の足どりは重い。太陽に照らされた俺には、はっきりとした影ができる。その影をじっと見つめることしかできない。

たった一つだけ解決したことがある。有希が俺を「伝言」で呼び出した理由だ。時間を指定して呼び出せば、崖の先に有希が立ち、俺を迎えることができる。突き落とされるために重要なシチュエーションを、スマホに証拠を残すことなく作ることができる。