プロローグ1
「離して!」
有希(ゆき)の怒り溢(あふ)れる一声に驚き、俺は一瞬手を離してしまいそうだった。眼下に広がる絶壁を見ると手足がすくみ、思うように力が入らない。
構えにも見える波が怒号のようなしぶきをあげる。ここで力尽きたら、俺は一生後悔する。揺れる焦点を手に合わせ、渾身(こんしん)の力で一気に有希を崖上まで引き上げた。
「どうして助けるのよ」
有希が顔を覆って泣き出し、俺は我に返る。再び有希が飛び降りたら今度こそ助けられない。
「とりあえず帰ろう」
無理やり有希の手を掴(つか)み崖から離れる。有希と繋(つな)いでいる手に全神経を集中させる。思いに反して、有希は怖いほど素直に付いてきてくれる。死の淵(ふち)にいた有希の精神状態は見当もつかない。
「有希」
頑張って声をかけた。
「何?」
淡白で冷たい。
「なんでもない」
言葉のかけ方が分からず、俺は黙る。人通りが多く賑(にぎ)やかな道に入った。俺の手は確実に有希の手を掴んでいる。しかし、本当に有希が隣にいるのか分からなくなる。
ぎこちない横目でなんとか有希を見ると不満そうだ。自殺しようとした人が生還すると、こんなにも不機嫌なんだろうか。もっと取り乱したり、自責の念にかられたりするものだと思っていた。
「また、今度な。とりあえず、ゆっくり休んで」
自分でも何を言っているのか分からない。返事のない有希が家に入るのを見届けた。
有希は父子家庭で弟と3人で暮らしている。
「おかえり」
家の中から声がする。この出来事を伝えてから帰るべきだろうか――。迷うと自然とその場を離れてしまう俺は、いつものように何の報告もせず立ち去った。
夕日に照らされる自分の影を追う。重い荷物を運んできたかのような疲労感だ。またいつものように視界の外側に軽い砂嵐のようなノイズが走る。
「ただいま」
脳裏で有希の家の中からの返事が聞こえる。有希はなぜ自殺しようとしたのだろう。今は不思議と有希が再び飛び降りる気はしていない。
俺の前で自殺して見せたかった? いや、考え過ぎだ。楽観的なのか悲観的なのかも分からない。
「あら、どうしたの? 今日の夕食は蒼斗(あおと)の好きなカツのミルフィーユよ」
「ごめん、食欲がなくて」
2階に上がる。こんなときは寝てしまうのが一番だ。天井に向かってため息をつく。明日になったら嫌な夢だったと目を覚ますだろうか。両手を顔の前に持ってきた。真っ赤だ。
目を閉じると崖下のしぶきが見える。まるで有希と一緒に落ちたみたいだ。こんな時の想像力は豊かであり、綺麗(きれい)な光景を作る。そして、心拍数が上がり、胸が締めつけられるように痛む。
それでもどっと疲れが出て、現実逃避を認めるように天井がぼんやりとしていくのが分かった。