国民は漁業を知らなかった。教えたのは日本人。特にタコは誰も食べないからたくさんいた。番茶で下茹ですると軟らかくなるが、ここのはもとから軟らかかった。蛸壺を持ち込んだが軌道に乗ると現地生産にする。
日本へは年間一五〇〇トン輸出された。これを皮切りに漁業が一つの産業に発展する。
「使ってくれ」
東北地方太平洋沖地震が起きると、漁民たちが大金を手に手にその日本人のところにやってきた。
ノモンハンから黒海のドニエストル川まで続くモンゴル草原の草は太腿まであったがいまは膝までしかない。
ノモンハンの戦いでは、日本軍は高射砲の水平撃ちでソ連軍の戦車と対峙した。戦車のガソリン漏れには火炎瓶を持って突っ込んだ。大勢の軍人の死。帰還兵から直接聞いた。
海進のピークの五〇〇年間は、大阪では海面がいまより七メートル上がって、雛人形の松屋町が波打ち際になった。その東の空堀(からほり)商店街は上町台地に駆け上っていて、大阪城の抜け穴になっている。
向かいの生駒山との間、河内平野に海水が流れ込んで河内湾ができた。淀川と大和川(流れが変わるのは後)の土砂が堰をして淡水湖になる。それが涸(か)れていまの大阪になった。
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