五、
「かりそめの命は、ご在宅ですか」
その夜、玄関先から、このような口上で、清らかな、透きとおる男性の声がした。この声を聞いて、私は、身ぶるいをした。いよいよ何かが起きそうだ。あわててはならないと、自分で、自分にいい聞かせた。
─静かに玄関の戸を開けて、応対する。
「いらっしゃいませ。私が、あのー、その……、はい、かりそめの命です」
ベッドで聞いた、伊弉諾の尊の宣告を思いだして、実感のない名で、挨拶をした。
「わたくしは、あれの命(みこと)と申します。伊弉諾の尊のお図指(さしず)で、お伺いいたしました」
暗くて、あれの命と名乗る者の姿は、よくわからない。ただ、ベッドのそばでみた、老人と思しき者の構えた矛と、あれの命の、ていねいな言葉は、はっきりと知ることができた。
初対面の挨拶としては、当りまえの挨拶である。しかし、その中身はこの世のものではない。
この先、どうなるのだろうか、と不安が走る。しかし、賽(さいころ)は投げられたのである。やるしかないと臍(へそ─覚悟をすること)を固めた。
「遠いところからご苦労様でした。どうぞ、お入りください」と下げた頭を、上げながらみえた、まわりの、ただならぬ変化に驚いた。
まさに、驚愕(非常に驚く)!
驚天動地(天を驚かし地を動かす)!!
何もかもなくなっている。玄関もない、家もない。庭もない。それどころか、お相手のあれの命もいない。
遠くに、白衣をまとった神の姿で、白雲に包まれた、二人だけの姿がみえた。そのとたんに、普段着の私も消えてしまった。
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