【前回の記事を読む】朝、痛みと共に目を覚ますと老人がいるではないか。老人は唐突に「われは、伊弉諾(いざなぎ)の尊(みこと)であるぞ」と大声で言いだし......
三、
「そなたに、なれる神の名は、かりそめの命(みこと)であるぞ!」
つづけて、「われより先(前)の、天(あま)つ神(かみ)に伺候(参上すること)したてまつれ!」と、大音声を残して、静寂な暗闇のなかに消えたようだ。ガラス窓のカタカタは、なくなっている。
この奇妙な、突然の大音声に、目が冷(さ)めてしまい、ベッドから離れることにした。
老人とおぼしき者の姿はなかった。ベッドのまわりをみても、何のかわりもない。時計は、午前4時24分をさしたままであった。
四、
こんな経験を口外するわけにはいかない。身内の者に話せば、早速、老人ホーム送りになるだろうし、他人に漏らせば、精神病者扱いを受けるにきまっている。相談先がないとなれば、自分一人で、今後の行動を決断するほかに道はない。
寝巻(ねまき)から普段着(ふだんぎ)に着かえながら、いろいろと考えた。しかし、考えは何一つまとまらない。
そこで、伊弉諾の尊の最後の言葉、「われより先の、天つ神に伺候したてまつれ」の意味を、考えることにした。
朝食後、書棚から古事記の本を取りだして、「われより先の天つ神」とは、つぎのような神々であることを整理し、そして、「伺候したてまつれ」とは、「参拝せよ」とのこと、と私なりに理解して、今後をみることにした。
古事記の神の名には閉口する。神話が敬遠(うやまって、近づかないこと)されるのは、神の名を覚えきれないからであろう。
私は、遠くの山々をみるように、神々の名をみればよい、と思っている。
さて、伊弉諾の尊の先にある、神々の山々は、薄暗い奥の方から明るい手前の方まで、山並みをつくって、だんだんと、はっきりとみえてくる。
このさい、山の名、神の名など記憶する必要はない。山、神を感じるだけで十分である。
もっとも遠くにみえる山々は、天地創成(てんちそうせい)の三神である。
あめのみなかぬしの神。
たかみむすびの神。
かみむすびの神。
遠くにみえる山々は、天地生成(せいせい)の二神である。
うましあしかびひこぢの神。
あめのとこたちの神。
以上の5柱の神
独(ひと)り神(天地に身を隠す)
別格の天(あま)つ神(かみ)
近くにみえる山々は、国土・事物の根源(みなもと)の二神である。