第一章 事故

七月、とある日曜の夕方。夏の夜は七時をまわってもまだ空が薄明るい。家族三人で夕食を済ませると、透はいつものように、犬のジョンを連れて散歩に出かけた。小型犬なので、普通は三十分もすると帰ってくるのだが、この日は小一時間が経ってもまだ戻らない。八時を過ぎればさすがにあたりは真っ暗だ。

(どうしたんだろう?)

そう思った矢先、電話が鳴った。警察からだ。女性の声だった。

「お宅でシェットランド・シープドッグの三歳犬を飼っていらっしゃいますか?」

「……はい」

「ジョンという名前で間違いないですか?」

「はい、そうです」

「こちらで鑑札を預かっています」

まさ子はほっと息をついた。

(透ったら、ジョンのリードを離してしまったのね。それで家に帰れず、ジョンを探し回って遅いんだわ)

「すみません、息子が散歩に連れていって……」

まさ子が明るく応対すると、女性は間髪を入れず、本当の用件を話し出した。

「この犬を連れた青年が事故に遭って、今、U総合病院に救急搬送されました」

「えっ?」

受話器を持った右手が硬直する。まさ子は立っていられず、思わずその場に蹲しゃがみ込んだ。

「事故…事故…」

まさ子の震えるような声を聞きとがめ、夫の幹雄は読みさしの新聞から目を上げる。

「どうした?」

その言葉で、まさ子は気を取り直した。

「……それで怪我の具合は? 息子は……」

「こちらではわかりかねます。すぐに病院の救急センターにいらっしゃれますか?」

「もちろん、もちろんすぐに参ります。駅前の、U病院ですね? ──あなた、あなた! 
透が、透が事故に遭った!」

幹雄は新聞をバサッと投げ捨て、「車、出すぞ!」と言ってソファから立ち上がった。

救急センターに着くと、中年の男性警官が出迎えた。

「城田さんですね。交通安全課の宮城です。お待ちしていました」

警官は二人を連れて病院の廊下をどんどん進んだ。まさ子はただ、警官の背中だけを見て足を動かす。どこをどう歩いたのかなど、わからない。暗い森の中を彷徨っているようだった。

「こちらです」

警官が手のひらで示したのは、『手術室』と書かれたドアの前の廊下に置かれたストレッチャー。まさ子はまだ信じていない。そこに横たわっているのが本当に透なのかどうか。

(人違いかもしれない。ジョンと一緒にいたというだけだから)

しかし、近づいて見れば、紛れもなく我が子であった。

「透! 透!」

駆け寄って手を握ると、透は目を開けて、まさ子をじっと見た。

「よかった! あんまり傷がないのね。心配したわ。何があったの?」

頭頂部には大きなガーゼが置かれ、それを止めるためネット包帯が被せられている。

「頭、打ったの? たくさん切ったの? もう処置は終わったの?」

「城田さん、よろしいですか?」

 

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