第四話 母の思い出

 

昭和の子母のお腹で終戦日(ゆう)

焼け野原の中でも、夾竹桃(きょうちくとう)だけは元気にピンクの花を咲かせていた、という終戦後の話はよく聞く。

昭和二十年八月、私はまだ母のお腹の中だった。その後十二月に無事生まれたが幼少期は虚弱児だった。この年に生まれた人口はその他の年と比べ極端に少ない。生まれてくる子が少なかったこともあるが、生まれても育たなかった子も多かった。そんな中で育ててくれた両親には感謝の気持ちでいっぱいである。

終戦当時兄五歳、長姉三歳、次姉二歳、そしてお腹には私。三歳の姉は、防空頭巾を被り焼夷弾(しょういだん)から逃げ惑い、川の中を必死に歩いた記憶があるという。

小さいながらも事の重大さは分かっていたので、木陰に身を潜めたり、泣き言一つ言わずしっかりと親の後をついて行くしかなかったという。真っ暗な中、火の玉が襲ってくる恐怖や、食べ物がないひもじさなどを語ったこともあった。

兄は東京都町田市生まれ、長姉は母の実家の茨城県石岡市生まれ、次姉は兵庫県尼崎市生まれ、そして私は父の実家の愛媛県今治市生まれと、短い期間ながら四人兄妹は別々のところで生まれている。父が職を転々としていた時期だった。

戦争中父はいわゆる軍需工場で働いていたので、戦争に駆り出されることはなかった。戦後どれくらいの時期今治に住んでいたのか定かではないが、長姉は新潟県魚沼郡堀之内というところで、小学校に入学している。四国生まれの父にとっては、予想外の豪雪地帯に住むことになり、さぞや戸惑ったことだろう。長靴も防寒具もないそんなスタートだったらしい。

 

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