2我が名はまだき
昨年買ったトレンチコート。春は出番がなかったけど、街路樹の葉が落ちるこの季節、ちょうど出番があってよかった。
「あの」
そんなことを考えていると、後ろから声が聞こえた。綺麗な声だ。まるでそう、花びらが落ちるような。
「生姜を赤く染め衛門さんですか?」
そのふざけた名前は綺麗な声にあまりにも不釣り合いだった。顔を上げたのは違和感だけが理由じゃない。振り向いた私の目の前には、黒いキャップを深く被り、黒いマスクで顔が覆われた男性が立っていた。
顔はほとんど見えないけれどこのオフ会の参加者にしては若い雰囲気。私より頭一つ分身長が高い癖に、マスクで覆われたその顔はあり得ないくらい小さい。一般人と違う骨格だ。
「は、はあ」
一体なんなんだこの人。疑念混じりの溜息が返事になった。
「やっぱり……!」
私が返事をすると、その人物は声をワントーン上げて、マスクを外してみせる。筋の通った鼻筋と、桜色の唇。花開くように、その唇が開いた。
「俺、カセンジキです! 染め衛門さんのファンです!」
カセンジキ? その圧倒的なルックスに似つかわしくない言葉に拍子抜けした。が、二拍空いてやっと、SNSの数少ないフォロワーである「歌仙敷」さんの名前に結びついて頷いた。
「あ、歌仙敷さん!」
呼んだ途端に彼の雰囲気が柔らかくなった。それから顔を見せるように帽子を浅く被り直すと、目元を見せて微笑んだ。
綺麗な二重のどんぐり色の瞳。高いのに主張のない鼻と桜色の唇。帽子から覗く前髪はミルクティーを思わせるハイトーンの茶色。
見覚えがあった。直接ではないけれど。この前テレビで見た顔だ、職場で話題になった顔だ。そう気付いて挨拶のために開いた口が固まった。
――職場の女の先輩が、ワンコインの定食屋のテレビを見ながら言っていた。
この子たち、最近は珍しい実力派のアイドルグループなんだよ。歌もダンスも頭一つ抜けてる感じなの、と。目の前の顔が、マイクを持って歌う姿を知っている。
「……もしかして僕のこと知ってます?」
「……うっすら」
やっと口から言葉が出たときには、彼は帽子を深く被り直し、マスクも上げて顔を隠していた。
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