真贋Ⅰ
フェイクニュースやフェイク動画が世間を騒がせている。人はうそよりも正直や真実や真相を好むが、「うそから出たまこと」という言葉がある通り、うそだからといって無視してばかりもいられない。
フェイクを仕掛ける側はというと、人を楽しませるためにはもっともらしいうそが必要であることを承知しているから始末が悪い。彼らの行為がエンターテイメントに通ずることを意識している。
作者ハイスミスが詐欺師リプリーを主人公にすえたとき、彼女もまたフェイクで読者を楽しませようとしていたのだろうか。あるいは、夢を追いかけるリプリーの姿を、うそ偽りなく描こうとしたのだろうか。
おそらく作者ハイスミスには、本物と偽物を、うそとまことを、二項対立として捉える考えはなかったと思われる。以下、『太陽がいっぱい』、『贋作』、『死者と踊るリプリー』の三作で描かれた真贋をめぐる問題を、「真贋」Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの三部構成で考察していく。
リプリーは、偽物を本物らしく見せる自分の「才能」にあぐらをかいていたわけではない。ナポリ銀行からディッキー宛てに送られてくる小切手にサインする際は何度も練習した。
自分の財産をリプリーに譲るというディッキーの遺言書を偽造したときは、練習に三〇分を費やし(サインの練習に三〇分はかなりの長さだ)、『これがディッキーのものでないと証明できるなら、証明してみるがいい』と、気合を入れてサインした。この気合が通じたわけではないだろうが、これは本人のサインだと専門の鑑定家が判断し、リプリーはピンチを切り抜けた。
マージは、恋人ディッキーをリプリーに殺害されたとは知らず、サイン疑惑がもちあがったとき、『偽筆だなんて、わたしには信じられない。ディッキーは人間がすっかり変わってしまったから、筆跡まで変わってしまったんだと思うわ』と意見を述べた。リプリーは、素知らぬ顔でその意見に同意した。