第一章 生い立ちの記

二 あきらめ

父の家は貧乏でした。他の兄弟姉妹は学校へも行けず働きに出され、末子でひ弱な父は少し成績が良く、旧制中学へ行かせてもらえました。

卒業後、当時としては花形と言われた「南満州鉄道」に昭和十年に入社しました。「日本本土では大学卒の給料が八十円ほどの時に、現地の満州人たちに日本語を教える手当が付き百二十円という給料をもらった」と、子供の頃よく聞かされました。

気の小さな優男の父が勤務した地は、満州のハルビンでした。満州の地は、遠くどこまでも平野が広がり、夕日が大地に落ちる様は、雄大だった。目に焼き付いていると、父はよく話してくれました。

ソ連との国境に近い黒河の水は凍り付くようで、満鉄管内は極寒の地だったと昔語りしてくれました。お金には不自由はなかったものの、他国の凍てつくような地で覚えたものは、俗に言う「酒と女」だったのです。高い収入も酒と女に消えていき、まもなく帰国することになったのです。

昭和十二年に日中戦争が始まっていました。父は帰国後しばらくして関東軍に招集され、昭和十三年に再び満州に行きました。翌昭和十四年のことです。

満州で、所属していた関東軍の中隊が駐屯していた時、風邪のため入院します。何ということでしょうか、自らの胸に濡らした手拭いをあて長引かせ、肺炎になったというのですから……。