第一章 生い立ちの記

一 原点

昭和三十年五月一日でした。母が、父に「御本尊様(御曼荼羅)の方へ体を向けてほしい」と頼みました。父はゆっくり静かに、母の体を御本尊様の方へ向けてあげました。

両親と共に私も御本尊様に題目を唱え祈っていましたが、ふと、母の声が聞こえなくなりました。振り返ると母は静かにスースーと寝入るようにほんの少し口を開け、目は微笑むように少し開き、長い闘病生活で青白な顔の頰には、ほんのりとほお紅で染めたような、湯上がりのような赤みがさし、とても綺麗な優しい顔でした。安らかな最期だったのです。

当時、北信濃の地ではお棺は座棺型でしたので、近所の方々から、硬くなったら大変だから、手足を紐で括らないとダメだと言われたのですが、母は柔らかなままでした。座棺に入れられた母は居眠りをしているようにみえました。まるで舟を漕いでいるかのようでした。

そんな母の「臨終」の姿は、仏様が教えられる「成仏の相(注※)」ということなのだと、子供ながらに心の奥深く刻まれたのでしょう。それは、信仰の最初の素晴らしい体験だったのかもしれません。(注※相とは仏教用語。特徴、特質、様相、形相という意味)

五月初め、山懐にいだかれた北信濃の山間の小高い山の中腹に、荼毘(だび)に付すために掘られた火葬場の焼釜(当時は自然の地形を利用)が、設えられていました。その頃は、おんぼやき(注※)のおじさんが、薪をくべながら、釜の傍らに作られた覗き穴から焼き具合を見ていたのだそうです。

(注※ネット検索したところ、死者の火葬・埋葬の世話をし、墓所を守ることを業とした人。江戸時代は賤民身分扱いとされ差別された言葉とありますが、適切な言葉がないので、当時使われていた言葉をそのまま使わせていただきました。今は、死語に近い言葉)

その時の母の焼かれていく様子を、父はそのおじさんから聞いたそうです。後に父が聞かせてくれました。

「この仏さん(死んだ人をこういっていたのです)は、よい人だったんだね。少しも暴れることもなくきれいに焼き上がりました。骨もしっかりしています。」「いろんな人がいますが、中には非常に暴れて(不謹慎かもしれませんが、その姿をたとえれば、炭火の上で焼かれるスルメを想像していただくと、容易に理解できるのではないでしょうか)、骨も黒ずんでグシャグシャになってしまう人もいます。その人の生き様が最後にあらわれるんでしょうかね!」と。

それを聞いた父は、日蓮大聖人の教えられる「信仰するものの成仏の相」だと確信したと言っていました。薪で焼く作業は時間がかかったことでしょう。焼き上がった頃は夕方になっていて、太陽の光が斜めから差しこみ、その夕日に映えて、それが真っ白に光り輝いて見えたのでしょう。

その光りは天に還る道に旅立つ、一瞬の光だったのでしょうか。何とも言えない神々しささえ感じられて、私はジッと見つめていました。私の目に真っ白に輝いて見えたのは、白い光が放っている先にある、荼毘に付されて鉄板の上に無造作に載せられていた母の御骨だったのです。

私の目からは、涙の滴の代わりに輝きにも似たものが見えたのではないでしょうか。見入っている私の心は、なぜか安寧に満たされているようでした。「母の死」は、私にとって、その後六十数年を経て、あまりにも母との関わりの少なかった中で、なお、心に刻まれた想いであり大きな力を与えてくれるものであったのです。

『先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし』(『御書一四八二頁』)