すねるという言葉が、私の頭の中に妙な引っ掛かりを生む。誰かもまた「すねる」と言ってくれた気がして。できるだけ心が波立たないよう抑え込んでいた私を、子どものように無邪気な表情で笑わせてくれた人が、いて。

「ああ、そうだ」菅野さんだ。遠い昔の記憶がよみがえる。

「君はお腹が空いているのか?」

「え?……」

 

その日もたしか、真夏の太陽が照り付けていた。

「すねたような顔をして、それに靴がぼろぼろだ。こういうときは、腹が減ってるってのがほとんどなんだ」

その日私は、こらーる岡山診療所の玄関前に置かれたベンチに座り込んでぼうっとしていた。家を購入したばかりで貯蓄は底をつき、来月の障害年金が振り込まれるまで食事もまともに取れない。庭に自生する野草を塩と油で調理し、どうにか餓えをしのぐ日々であった。

そんな時に出会ったのが菅野直彦さんだった。こらーる岡山診療所へ通所する患者の一人で、永ちゃんとも長年の付き合いがある。私たち三人はいつしか互いに心を許し合い、親友の間柄となっていた。

銀縁眼鏡の菅野さんは根っからのヘビースモーカーで、いつも煙草の匂いがする。接していると、不思議と穏やかな気持ちになる人であった。聖人君子といった風の大仰な形容がふさわしく思われるほど、誠実でまっすぐな話し方をする。

ああそうだ。そうだった。菅野さんのことを言い表す言葉がしばしば過去形になるのは、菅野さんがもうこの世にいない、記憶の中の人だからである。

「……菅野さん」

じっと目を閉じ、一つ、ふうと息をつく。三年前。菅野さんは心不全で亡くなった。

菅野さんは日に五箱もの煙草を吸う。それが楽しみなのである。そして、こらーる岡山診療所に通うということは、彼もまた病を抱えていたのだ。

つらいことも苦しいこともあったろう。だが、菅野さんは、私には変わらずずっと優しくしてくれた。

次回更新は4月26日(土)、22時の予定です。

 

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