文化によって人がましくならなければ、人間は社会で生きていけない。
近代化が進んだ昭和初期は、日本人なら何々、といった言い方で国民全般に道徳心や精神力を期待するのが容易になった時代でもあった。
把握できない多様な現実から目をそらし、同じ日本人という概念を漠然と信じ、国家の要職にある人たちですら同床異夢の状態のまま始めたのが、80年前に敗北で終わった日本の戦争であった。
似た現象は今も続いている。
国民の一人として皆と文化を共有しているつもりでも、それがどのようなものなのかは他者に伝えられず、世間と同じ話題を口にしていても、自身をめぐる現実については言葉で客観視できない人が多い。
それはおそらく日本人に限らない人間の一般的な傾向であり、常識や習慣を疑わずに済む恵まれた環境が文化による抑圧や失敗を逆に生み出していると思える例は数多くある。
人は幸福な環境にあれば、文化とその影響で動いている複雑な現実をあえて言葉で捉え直そうとはしない。
その状態は甘美であり、多くの日本国民が新しい憲法の保障する言論の自由をそれほどありがたいと感じていないらしいのは、戦後の社会が基本的に多くの言葉を要しないほど順調に機能してきたことがおそらく関係している。
しかしそれは永遠に続くわけではなく、条件がいくつか失われれば、言葉を制限して国民を勝算のない戦いに駆り立てた戦時中と似た事態は今後も起き得ると予想される。
言葉を適切に使えないことの非は、大人による子供への虐待を考えるとわかりやすい。
子供は自身の置かれた状況を客観的に捉える判断力をあまり備えておらず、異常な扱いだと多少は感じても、事態を言語化して他人にうまく伝えることができない。
そして大人の集団であっても、現実に即した言葉を使えなければ似た状況が生じることがある。
筆者のいた組織では、上が重要なところで思いつきや惰性によって誤断を重ねていても、下がその状況を高度な観点で疑問視することができず、学校生活と似たような日常を漫然と過ごしながら終わりを迎える傾向が顕著にあった。
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