私も冬の薄氷が張っている沼に入ったことがある。魚を釣る釣り針が沼の底の何かに引っ掛かった時のことである。その釣り針を取ろうと水面から頭を沈めたとたんに刺すような痛みと苦しさに身体が硬直した、それでも潜ろうとしたが十秒と続かない。私にとって釣り針は生活の糧である魚を確保するための大事なものであった。
彼は私が備えていない特別な能力を持っている。私にとっては憧れの存在であった。彼は恐らくこの世で怖れるものはないかもしれないと私は思った。
しかし、いつしか彼の姿を見ることもなくなった。私は、元々彼はこの世界には存在などしていなかったのだと思った。一応肉体はこの世にあったが、彼には肉体などあって無きがごとくのものであったのだろう。
私は彼が羨ましかった。私が寂しいと感じたのは、彼を友人にできなかったことである。彼と親しくなれなかった寂しさと比べれば、親との別れなど何でもないことであった。
ある時、私の学校に変わった転校生がやってきた。
各地方を巡業するサーカス団員の男の子であった。地方を転々としているせいか、何か雰囲気が違う。だが、私は彼とすぐ仲良くなった。
彼はいつも鉄棒でしなやかな身体を使って練習していた。彼は一ヶ月もすればまた違う土地に移動する。すぐに別れる友達は作らないほうが気楽である。私は、彼の憂いにも似た孤独のようなものに興味が湧いたのだろう。
しかし、彼を捕えるのは簡単であった。彼はサーカスという環境のせいで他の同世代の者より体力には自信があったからだ。私はとんぼ返りや鉄棒で回転することはできなかったが、相撲は強かった。
私は彼に言った「相撲は強いの?」と。私は彼に簡単に勝った。彼は、私に負けたことがよほど悔しかったのか、何度も私に「もう一回」と言って挑戦してきた。しかし、彼はどうしても私には勝てなかった。
彼の自信は体力であった。幼い頃から身体を鍛えさせられている。彼は相撲でも腕相撲でも自信があったのに、それが崩された。彼は最後には疲れはて、悔しそうな顔をして「負けたのは、初めてだ」と言った。
彼は村はずれの一本松公園という所で家族や団員と暮らしていた。大きなテントが張られていた。私は彼の所によく遊びに行った。彼も私に対しては何か似たものを感じたのだろう。故郷を喪失した者の孤独にも似た感情を、である。
同世代で共感できた数少ない一人であった。だが、彼もすぐにいなくなった。
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