これら群雄は古墳建設事業を通じて、一つの文化圏、経済圏を形成したと推測できる。さらに政治的にも豪族連合のようなまとまりができ、西日本の中心的指導者として「倭王」が君臨したのではないだろうか。

「平」は「平定する」と「穏やか」の意がある。海北の朝鮮半島では、軍事力か外交力かは不明だが、倭王が半島の平穏を保つ努力をしたのだろう。四世紀末から高句麗が勢力を持ち、南の百済、新羅へ圧力を加えていた。倭国としては朝鮮半島の権益を守り、交流のあった百済の後ろ盾となる必要があった。

鍵となる三文字から倭王は東に「征服者」、西に「支配者」、北に「調停者」あるいは「後援者」として臨んでいたことが読み取れる。つまり倭王の所在地は西と東の中間である必要はなく、支配圏である西国のどこかと判断できる。


二‐二『宋書』夷蛮伝

太祖元嘉二年、(中略)讃(4)死弟珍(4)立、遣使貢献、自称使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王、表求除正、詔除安東将軍・倭国王。

(元嘉)二八年、(済(4))加使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍如故、(以下省略)。

世祖大明六年詔曰、倭王世子興(4)(中略)宜綬爵号、可安東将軍・倭国王。順帝昇明二年、遣使上表曰、(中略)東征毛人、五十五国、西服衆夷、六十六国、渡平海北、九十五国(中略)詔除武(4)使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王。

 

【イチオシ記事】3ヶ月前に失踪した女性は死後数日経っていた――いつ殺害され、いつこの場所に遺棄されたのか?

【注目記事】救急車で運ばれた夫。間違えて開けた携帯には…「会いたい、愛している」

【人気記事】手術二日後に大地震発生。娘と連絡が取れない!病院から約四時間かけて徒歩で娘の通う学校へと向かう