病院での診察では幸い頭は打っていないようで、一泊と決まってからも夕子は、「帰る」を意識して連発した。そうしないと、このあと、桜子は強引に夕子を引き取ると言って聞かないかもしれない。
桜の園も心配だった。注文のあった苗木の出荷も間近だ。それにせっかく摘んだ大島桜の葉も早く漬け込まなければならない。
夕子はようやく我が家に戻ることができた。滅多に使わない玄関に入ると、思い切り深呼吸をした。普段着に着替えると気持ちが次第に落ち着いてきた。
大島桜の葉は水洗いし氷水に浸したまま冷蔵庫に入れてあった。桜子が夫の山田に頼んでくれたようだ。
桜子の陰の声が甦った。
「あんひと、ほんとは気むずかしいんや、そやけどな、かあさんのことは別みたいえ」
夕子は水を切ったあと、熱湯を注いで色止めした。あの桜餅特有の葉色に憧れる夕子は水を切るとまた、葉を縦に一枚一枚丁寧に重ねる。冷蔵庫用のぬか漬け容器に葉を並べ、塩を振り、市場で買った白梅酢を注ぎ、重しを載せる。
(事故があってね、桜餅はちょい待ってーな)夕子は心のなかで悠輔に手を合わせる。
今日は明日からのことを考えて早く寝ようとしたが、昨夜病院でしっかり寝たせいか、それとも我が家にすぐ帰れたことで無意識に興奮していたせいか、なかなか眠れなかった。
「桜餅の葉は芳香成分のクマリンを多く含む大島しかあかへん。葉の香りは塩漬けにすると発酵してもっと……深まるん……や」
確かに悠輔の声だった。夕子は彼の声が好きだから忘れもしない。しかし、声は聞こえるのに姿は見えない。夕子は苛立つ。その瞬間に目が覚めた。