緒言 オルゴールがおわるまで

新潟市の繁華街“古町どおり”の食堂で、ライスカレーを間にはさんだ話のはずまない見合いの席が父と母の出会いであった。その日(昭和三十四年四月十日)、食堂の白黒テレビには、時の皇太子・明仁殿下と美智子様のご成婚式が報じられていた。ヨシ子、二十二歳の春のことである。

さて、ここで父の事を語らねばならない……。父、昭一は八人兄弟の長男。本来は上に三人の兄がおり十一人だったのだが、いずれも、戦争や病気で早逝してしまい、気がつけばいつの間にか長兄になっていた。

終戦を間近とした昭和二十年春、十五歳になった昭一は高等中学校(今でいう高校)の夜間部へと進学した。学業はさておき、もっぱら拳闘(けんとう)(ボクシング)に夢中の青春を謳歌していたその頃、学校の掲示板に予科練(海軍飛行予科練習生)の志願兵を募る告知が張り出された。

[写真1] 1945年予科練入隊時の父

体力と気力のあり余る昭一は是非もなく高らかと挙手をし、“一億総決起”のスローガンのもと、「世が世なら、元服して戦さに行く齢だ……」などと勇ましいことを言い、親の心配と反対をよそに家を飛び出し入隊してしまったというツワモノだ。そのあと戦争は、各地の空襲と広島・長崎への原爆を代償に終焉し、結局、戦地へ赴く事はなかったのだが、晩年、酒を呑みながら、厳しい訓練の様子などを話してくれた事があった。

♪若い血潮の 予科練の七つボタンは桜に錨……〈若鷲の歌〉と、讃えられたあの歌は、当時の若者へのペテンであった。そんな、忠君愛国と踊らされた多くの学徒の中に、詰襟のお仕着せをまとった父もいた。