小学校時代、放送委員だったこともあり、姉の勧めに従い放送部へ入部することにしました。放送室に行くと大人びた先輩たちばかりで、何だか場違いなところに来てしまったような気がしましたが、すぐに打ち解け放送室に行くのが楽しみになっていきました。

放送部の仕事は、お昼休みに音楽や校内ニュースを流すのですが、滑舌が悪いと聞き取れないので、放課後になると発声練習や朗読の練習をします。

「あ、え、い、う、え、お、あ、お」

「か、け、き、く、け、こ、か、こ」

「生麦、生米、生たまご」

「坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた」

など、みんなで声を合わせて練習しました。番組を録音するときは雑音が入らないように、誰もいなくなった夜に行われ、そんなときは、いつも一緒に帰っていた彼女にも先に帰ってもらい、遅くなることを母に伝えてもらいました(その頃はまだ家に電話がなかったのです)。

あまり遅くなると、顧問のY先生(先生は東京の名門女子大を卒業したばかりの美人で知的な方でした)が車で送ってくださいました。お家が直江津より先にあるので帰りがけに送ってくださっていたとばかり思っていたのですが、卒業してしばらく経ってから先生にお聞きしたところ、生徒を車で送ることは禁止されていたのに、Y先生がそのことを知らなかったために学校で問題になり、若かったY先生の代わりに先輩のH先生が全責任をとって対処してくださったとのことでした。

そんなこととはつゆ知らず、文章が好きだった私は依頼された原稿を直したり、物語を作って昼休みに流したりすることがとても楽しく、授業より放送部に通っているような毎日でした。

放送コンテストへの挑戦三年生になり、先輩たちのあとを継いで、“NHK全国放送コンテスト”に挑戦することになりました。六月の新潟地方予選で、文芸部門と報道部門がそれぞれ一位、アナウンス部門では私がなんと三位になり、東京で行われる全国大会に出場することになりました。

八月になり、Y先生につき添われて東京に出発しました。上野駅で先生と別れ、目黒にある親戚の家に向かいました。翌日、一人で準決勝会場の女子大に行き講堂に入ると、百五十人ほどの出場者が集まっていて、まもなく審査が始まりました。

審査といっても審査員の姿は全く見えず、広い講堂で順番を待ちステージに上がって原稿を読み、終わったらまた席に戻るという、まるでトコロ天のように押し出される感じで緊張する間もありませんでした。それに私は、「どうせ新潟で三位なんだから、準決勝を通過するわけがない」と気楽な気分でした。全員の発表が終わり明日の決勝大会について説明がありました。  

 

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