「愛」とは「自分の生存への執着欲」のこと
十二支縁起における愛とは、渇愛(かつあい)のこととされます。 愛への渇きは、現代でいう欲望を意味していますが、自分の生存に執着したいという欲から生まれてきます。自分の生存に関わる執着欲が渇愛になります。それが、自分の中に際限の無い欲望(我欲)が生まれてくる理由であります。またそのこだわりから、我がもの(自分のもの)という所有欲が生まれてきます。
『人々は我がものであると執着した物のために悲しむ、所有している物は常住ではないからである。……
……我がものという観念に屈してはならない。』(スッタニパータ 805-806)
本能的、生理的な欲求である食欲や性欲は、根源的な生存欲求でありますが、そのつど満たされれば消える欲求です。
けれど、自分(自我)に執着することで、自分の将来における不安と期待が取り込まれ、単なる欲求が過剰な欲望、際限のない欲望へと変わってしまいます。あるいは、その代償となるものを欲望することにつながります。権力やお金、社会的地位や名声などがその代償となる欲望の例といえます。
渇愛と無明との関係を語る言葉もあります。
『渇愛の根源となる煩悩を根絶しないならば、この苦は繰り返し現れ出る。』(ダンマパダ 338)
渇愛(欲望)の根源は、無明(無知という煩悩)にあり、無明を根絶しなければ、渇愛(欲望)が繰り返され、苦も繰り返されると語られます。
これまでの流れから見ると、「五蘊への執着」により自我(無明)が形成され、「自我への執着」から我欲が生まれてくることが分かります。
また、自分の欲望も必ず満たされるとは限りません。むしろ満たされないことのほうが多いのではないでしょうか。欲望が満たされなければ、心は不満足な状態となり、不快を感じ、欲望を妨げる者に対して怒りを感じるようになるかもしれません。