【前回の記事を読む】まだ知られていない、イタリアの魅力。古くから人をつなぎ、架け橋と呼ばれた街道の歴史に迫る
フランチジェナ街道とは
やがてルネサンスへ
14世紀になると、皇帝権、教皇権共に衰退する。神聖ローマ皇帝は7人の選帝候の選挙によって選ばれるようになり(1356年~)、教皇庁はアヴィニョンに移った(1309年~ 1377年)。
これにより、ローマとアヴィニョンに別々の教皇が立てられる教会大分裂(1378年~ 1417年)の時代を迎える。また気候の寒冷化に伴い、凶作と飢餓、更に黒死病の流行が欧州全体を覆う。イタリア半島では、有力都市国家と教皇領が勢力を均衡させながら相対峙する不安定な状況が続いた。
その後のルネサンス期になると、勝ち残ったフィレンツェやローマなどが地域の中心となり、その結果、重要な通商ルートから外れたフランチジェナ街道沿いの都市は、徐々に衰退していくこととなる。
フランチジェナ街道を歩いた人々
中世の時代、フランチジェナ街道を歩いたのは一体どういう人々だったのだろうか。歴史のロマンに満ちたこの道の魅力をより楽しむため、歩く際、具体的にイメージしてみて欲しい。
ローマ教皇
中世の教皇は全ヨーロッパに霊的権威を有し、特に11世紀末から13世紀に絶大な影響力を誇った。中部イタリアにも広い所領を有し、ローマからフランチジェナ街道を通って、ヴィテルボやモンテフィアスコーネなど所領各地に移動し、執務を行った。

神聖ローマ皇帝
初代の神聖ローマ皇帝はザクセン朝オットー1世(962年戴冠)である。以降、代々の皇帝は、欧州の世俗支配権の頂点に立ち、戴冠のためにローマに赴いた。ローマ教皇とは叙任権問題等で対立が続き、破門と和解を繰り返した。

国王・諸侯
11世紀以降、ローマ教皇の呼びかけに応じて、多くの国王・諸侯が武装した部下の領主を引き連れて十字軍に参加し、フランチジェナ街道を往来した。フランチジェナ街道沿いにあるいくつかの教会や修道院には、エルサレムに向かう国王・諸侯が従者や馬と共に宿泊した記録が残っている。
