カフカは、人生の時間を苦行者のように過ごした。体調不良だけで苦しんでいたわけではなかった。1916年という早い時期に書かれたメモには

「わたしが悟った最初の兆しは死への願望であった。こんな生活は耐え難いし、かといって、別の生活に切り替えることもできなかった。死にたいと思うことも、もはや、恥ずかしいとは考えなくなっていた。古くて嫌な独房から、また嫌になることがわかっている新しい独房に連れていってほしい! 輸送中に偶然、キリストが廊下を通りかかった囚人(わたし)を見て、『この者を二度と閉じ込めてはならない、わたしのところに来させなさい!』と言ってくれるのではないかという淡い信仰だけは、まだわたしのこころに残っています」1

と記されている。

カフカの病気の最初の症状は、赤い色の唾液が続いて出たことであった。カフカは、それを無意識のうちに放置していた。そして、その7年後の1924年の夏に、命を落とすことになったのである。

1917年8月12日から13日にかけての夜、カフカは、ついに喀血(かっけつ)をした。友人の医師ミュールシュタインは、当初は、無害な気管支カタルと診断していた。それ以来、カフカは、正統派の医学やその代表者である医師に対しては、常に批判的になっていた。

彼は、ライフスタイルを健康的なスタイルに変えるように指示して滋養強壮剤を処方した。数週間後、カフカは、友人であるマックス・ブロートの強い要請を受けて、肺の専門医であるピック教授の診察を受けた。

そして、唾液検査とX線検査の結果から、急速に悪化した肺結核と診断された。ピック教授は、カフカに療養所への入所を勧め、また当時は強壮剤とされていたヒ素の服用も勧めた。しかし、カフカは、教授の勧めを横目に、田舎に住んでいる大好きな姉オットラの家に、3カ月の間移住することにした。


1 Kafka, Franz: Oktavhefte. 8. Heft (1916) 

  

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