その際、忠賢の元上司であり、やはり、藤原実頼の命により、隠岐へ流罪となった、藤原千晴(ふじわらちはる)の件も、忠賢は、よくよく実頼から〝因果〟を含められていた。
要は、父と共に出家する事などは、言語道断、寧(むし)ろ千晴と、然るべき処まで同道し、監視する事が、求められた。
しかし藤原千晴と言えば、忠賢の師匠筋にも当たり、また平将門の乱では名を馳せた、元鎮守府将軍の嫡男でもあり、貴族とは雖(いえど)も伊勢の固関使(こげんし)迄務め上げた程の〝勇の者〟であり、武門の棟梁の様な者でもあった。
徒や疎かに扱えば、荘園警護程度の兵ならば〝束になって〟も、皆、返り討ちに遭う事は、必定な程度の腕は、持ち合わせており、その様な事態を怖れ、実頼は、高明、そして都では、最も若かった検非違使の判官(じょう)でもあった、忠賢に依頼したのだった。
藤原実頼は、忠賢が、高明が歳を得てからの初の嫡子だった。
故に、嫡子の言葉には、高明が盲目的に従う事も、ある程度、計算していたのかも、知れなかった。
諸々の思惑もあり、藤原実頼は、高明の嫡男の忠賢に、親子で自身の西の果てにある―其処が太宰府と山陰道との分岐所でもあった―荘園迄、藤原千晴との同道を依頼したのであって、忠賢自身には都に戻る選択肢も残していた。
此処から隠岐の島迄は、千晴の息が〝掛かっていない腕の立つ〟若い検非違使を師尹は〝選出〟し、彼等と共に、実頼麾下の荘園にて飼う、マムシ以下、実頼子飼いの手練れの武辺の者達と共に、隠岐迄の行程を委ねる算段が、実頼の弟で在り、高明を陥れた、藤原師尹の策略であった。
マムシの腕前に関しての噂は、都の実頼経由で師尹も知っていた。
「マムシよ」
官位の上では、源高明の方が、この荘園の司より〝遥かに〟高かった。故に藤原某は、上座に当然の如く鎮座する高明から見て右側、息子の忠賢の下座に座り、更に、出入り口近くの下座に控えていたマムシに声を掛けた。
※左遷による下向途中
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