プロローグ

中国地方にある、その荘園は、都の藤原北家の嫡流、藤原実頼(ふじわらさねより)の荘園の一つであった。

この地に住む〝マムシ〟と呼ばれている、帯剣が許された荘園内の治安維持を司っていた腕の立つ下級役人(武士)がいた。彼は、着剣が許される程度に、その荘園に於ける実力者(剛者)でもあったが、一方で、刀剣の製作の長でもあった。

彼の娘は、此の荘園が面した海のそばを流れる川から砂鉄を採る事が出来る知見を、一通りの常識と共に幼き時分から父親より伝授されていた。

父としては、この一人娘が〝男〟であれば、と思えるほど、彼女は、父の知見を物心が付き始めると直ぐに、まるで海綿(スポンジ)の様に吸収して行った。

娘が優秀故に、そして彼も彼の女房も、荘園内で重宝されていたので、多忙を極めていた。

彼女は、この夫婦にとっての、一人娘であった。

源高明と忠賢親子は、所謂、安和の変と呼ばれた、都における実頼の弟、藤原師尹(ふじわらのもろただ)との権力闘争に存外、巻き込まれた結果、高明自身が、出家し、其の儘、都に残る事も許されず、大宰府に※流され此処、当地の荘園の持ち主であり、自身の義父でもある、藤原実頼の郎党で此の荘園の管理者でもある、藤原某の許に、マムシの案内で挨拶に出向く所であった。

         

高明は、師尹(もろただ)の長兄でもある藤原実頼や師尹の指導者でもあり、実頼のすぐ下の弟であった師輔が、現役で村上帝を輔弼していた時代を知る故に、彼よりも若年の(経験の浅い)師尹に疎まれ、嫡男を預ける程度に信頼していた、実頼の命でなければ、この下向は、容易く受容は、しなかったであろう。

彼は

「此れが、政局(まつりごと)と云ふモノか…」

と呟き、実頼の派遣(よこ)した、検非違使(けびいし)に逍遥と従い、差し回しの檻車(かんしゃ)(とは言え実態は、官位に相応しい唐車)に乗ったそうである。

都から大宰府迄は、馬を使っても、七日の行程であった。

ましてや馬関の海峡を渡るに際して、藤原実頼の添え状を、この藤原何某に渡し、仲介の労を依頼しなければならなかった。