一九五四年のことである。P32は英国から国内指定の場所に直輸入される(容量は約二十ccの小瓶詰め―ワクチンの小瓶を想像してくれればよい―)。君が研修した医大は指定場所でなかったため、君は二か月に一度の頻度でP32を東京から医科大学へ運んでいた。

そのとある折、トラフィックジャムに巻き込まれ君が乗ったタクシーが東京駅に着いたのは特急[つばめ]発車五分前だった。特急のホームは丸の内口からは遠い八重洲口側にある。君は走った。ホームに駆け上がって発車ベルを聞いた途端、ハッと気が付いた。

鉛菅に収納したP32の小包みが手元にないことを。

タクシー料金を払うのに慌ただしく、一端包みを手から外し、そのまま車から飛び降りてしまった。そうだ、タクシーの中へ置き忘れてしまったのだ。すぐさま君は東京駅近くの丸の内警察署に遺失物の届けを出した。

「遺失物の届けです。放射性物質という特殊なものを……、タクシーの中に置き忘れて仕舞いました」

「で……タクシーの車種は?」と警察係官。

「かぶと虫ルノーでした」

当時の都内のタクシーの七割近くはかぶと虫と字されていた小型のルノーだった。

「分かりました。管下一斉手配をします。いずれ記者会見があるので、午後三時に出頭してください」係菅の返事と指示があった。

君は待機場所を日本橋にある三兄の事務所に決めて足を運び、事の顛末を告げた。三兄はいまから頼めば記事掲載差し止めを願えるかもしれないと、君を連れて知り合いの某日刊紙の社会部部長のもとを急ぎ訪れた。

子細を聞いた部長は

「貴方の弟でなければ、君なる人物の思想的背景を徹底的に洗えと命令するだろう……」と、小首をかしげ、視線を遠く窓外に移しながら、

「仮に……放射性物質を浄水所に流し込んだとすると、どうなるか……」