【前回の記事を読む】ある日、厚生省入省の要請があった。当時30歳、この青二才に何ができるのかという否定的な雰囲気が漂い......
知らぬが佛と知ってる佛
二度目の癌闘病記
ところがその提携にヒビが入った。
提携四年目に差し掛かった時、突如N氏が、提携はT社にとってメリットはないという理由で一方的に提携を打ち切り、君の会社の社長職を辞しT社の社長の席に就いたのである。
保身としか思えない行動に君の心身は怒りに燃えた。人間の徳性として最も大切な仁義に反するれっきとした裏切り行為である。殺してやろうとまで思い詰めた。その強烈な執念と傷心とを平常心に何とか戻そうと、救いを求めた先に禅があった。
粉飾決算が明るみに出て、船橋ヘルスセンターは大手不動産会社に吸収合併され、創業者の栄誉が守れなかった失意のうちに、父は他界した。
事業戦線縮小の家族会議で君が受け持っていた会社は長男が引き継ぐことになり、一挙に君は身軽になったのだが、数か月後不渡り手形を出して引き継いでくれたはずの会社は倒産、長男は行方不明となって姿をくらました。結局後始末は君に負わされ二年を浪費した。
運命のいたずらかとつくづく嘆いたが、嘆きを払いのけほぼ平静に戻してくれたのは禅であった。
その禅が、終焉を間ぢかにしている今の君が、信頼する菩提寺の住職との貴重な知己の縁結びの起点になっているし、多分その時分からじゃないかなー、ひそかに君の心の中に二人の佛が住み着いたのは。
また、たまたまその時期に、君が生来持っていた藝術・芸能心に火が付き、彫刻に精を出し、日彫展(公募展)に三回入選し上野美術館に作品が展示された。
さらに縁あって、のちに人間国宝になられた常磐津の師匠について常磐津節に親しみ、お名を頂いて国立小劇場の舞台に立ったこともある。倒産会社の整理に二年を費やし自由の身になったが、さて、これからどうしようかと思案に暮れた。
君は産婦人科医に戻る気はさらさらにない。世の中は高齢化時代になりつつある。高齢者医療、とりわけリハビリテーション医療に興味を持ち始めていたので、その科を標榜するクリニックを開業しようと思い立ち、知己を頼って東大のS教授を訪ね、リハビリテーション医療の研修方を願った。
が、学園紛争がまだ収まらない時期とあって断られ、代わりに研修場所として丹沢山の麓にあるN病院を紹介されたのである。
当初は三・四か月の研修期間と踏んでいたのが、開業を予定していた土地が会社整理のための担保に取られ、目論んでいた計画が挫折する時期に同期して、医師不足にあった病院当局から、常勤医師として継続勤務を要請され、それから二十年余、N病院に職を奉ずることとなった。
リハビリテーション病院と言ってもリハ専門医は院長と副院長の二人きりであった。良き弟子ござんなれと、副院長は手取り足取り君にリハビリテーション医療の奥義を伝授してくれた。三年ほどで、院長に代わって某大学衛生学部の選択科目であったリハビリテーション概論の講義を受け持つほどに成長した。