「久原さんはなぜ拒んだのでしょうか。理由を何かおっしゃっていましたか」
「いえ、詳しくは何もいいませんでしたね。キャリアが変わったのか、結婚などの予定があるのかなど考えを巡らせましたが、分かりあうことはできませんでした。今思えば久原さんはあの作品を自分の描いたものだと認めたくないように見えました」
三好はメモを取りながら栗林の言葉に聞き耳を立てている。
「二つ目の特別扱いというのはどういうことなのでしょうか」
「ええ、実は複数のコンクールにも入賞し、プロへの足がかりにもなると思われた彼女の描いた卒業制作は、元々の制作要件を満たしていなかったのです。それなのに採用し選考されたことが、一部の生徒や保護者から問題にあがりました」
「条件を満たしていなかったとは、通常ならば失格となるようなことですよね」
「ええ、刑事さんのおっしゃる通りです。しかし私にはあの作品を落とすことなどできなかった。制作のルールや私のキャリアなどどうでもいいと思えるほど素晴らしかった。
水彩や水墨、彫刻、デジタル、どの手法を用いても構いません。卒業制作の条件は一つだけでした、この紫藤美術大学のシンボルツリーである『紫藤の木』を描くことです。この卒業制作は紫藤美術大学の伝統的なものであり、創立された百年前から続く伝統行事のようなもの」
そう言うと後ろに神々しく聳え立つ紫藤の木を見上げた。冬の風に大きく靡きながら降っていた雫を吹き飛ばすように蠢いていた。足元には水たまりが多くある。