ルイス・デ・アルメイダは、もう既に日本滞在一三年目のポルトガル人である。この時四〇歳である。外科医の資格を持ちながら、富と夢を求める、貿易船の船長でもあった。

三〇歳で巨万の富を稼ぎながら、信仰の為に全てを捧げた。弘治三(一五五七)年、府内に病院を開設した。孤児院も作った。「豊後の憐みの聖母マリア病院」である。そこには日本で最初のハンセン病病棟もあった。

二年後、更に大きい外科手術の設備を持った病院も出来上がっている。この病院は武士など、貧しくない者の為の物であった。体系だった医学教育もアルメイダに依って行われていた。現在は、「大分市医師会立アルメイダ病院」にその名を残している。

ロレンソ・了斎は盲目の琵琶法師である。ザビエルと出会い洗礼を受けた。高山友照(右近の父)は、自らの洗礼後、ロレンソを自らの沢城に呼び、息子彦五郎(後の右近)ら家族のみならず、求められれば家臣達にも洗礼を受けさせたのであった。

ロレンソは、永禄六(一五六五)年からは九州で活動を行っていた。弘治三(一五五七)年、大内氏の滅亡により、翌年には山口の布教本部が豊後に移された。布教長トーレスも府内に移った事で「府内」は、事実上「日本キリスト教の布教本部」となっていたのである。

布教長トーレスは病に伏していた。宗易はトーレスを見舞った。病室にはアルメイダが寄り添っていた。アルメイダとは、三年振りである。宗易四七歳、アルメイダは四五歳である。

「宗易様ご無沙汰いたしております」

「アルメイダ殿、三年振りですね。堺での復活祭以来です」

「はい。あの時は松永久秀様の強い要望で出された『伴天連の都からの追放令』で、豊後に戻る途中でございました。ディオゴ・了慶様達との復活祭と、次の日の宗易様・宗及様を交えた茶会が、今でも懐かしく思い出されます」

「ところでトーレス様のお具合は如何ですか」

「今はお休みになっておられます。ザビエル師とトーレス師が初めて日本に来られた時は、一人の信者も一つの教会もございませんでした。ザビエル師がゴアに戻られ、その後お亡くなりになられてから、そのご遺志を継がれたのはトーレス師でございます。私も師にお会いしてこの道に入りました。以来都、堺、山口、府内、平戸、有馬、島原の教会を中心に数多くのキリシタンが誕生したのも、主のご加護と、トーレス師のご努力の賜物でございます」

「静かにお休みのご様子。目覚められたら宜しくお伝えください。ロレンソ殿も息災ですか」

「はい。今は隣の教会でミサをしております」

「それではそちらを訪ねてみましょう」

  

【前回の記事を読む】秀吉の朝鮮出兵以後、朝鮮の陶工も技術も根こそぎ日本に連行された。日本の「萩焼」「薩摩焼」などは、実はそれらの陶工が……

 

【イチオシ記事】あの人は私を磔にして喜んでいた。私もそれをされて喜んでいた。初めて体を滅茶苦茶にされたときのように、体の奥底がさっきよりも熱くなった。

【注目記事】急激に進行する病状。1時間前まで自力でベッドに移れていたのに、両腕はゴムのように手応えがなくなってしまった。