半月ほど前に義久へ三成の側近である島左近丞勝猛から書状が届き贈答品のことや宮中の作法や服装などの指南が認(したた)められ、文末には「おさおさ怠りなきよう」とあった。

秀吉への進物である金銀、馬、反物、太刀、常陸の名産品などを目録に認めた。東義久、北義憲、南義種ほか与力大名たちからの進物目録も揃った。献上品は秀吉だけにではない。石田三成、増田長盛ら重臣らにも贈らねばならない。

夥しい量になる。「父上、関白様方への進物の品は、このようなものでよろしいでしょうか」

義宣は目録を義重に披露した。

「あの関白秀吉という小男、なかなかやるな。叙位だの任官などといって恩に着せるが奴の腹は一切痛まぬばかりか逆に潤う。よほど、帝と、いや朝廷と持ちつ持たれつなのか、さもなくば弱みを握っておるのか……まあ、いい」

義重は独り言のようにボソッと呟くと、

「お前に教えておこう。進物というものは、つまらぬ物を度々贈っても余り意味がない。くれてやる時には相手の眼玉がひっくり返るほどの物でなければならぬ。当家は平安の古(いにしえ)よりの名族ぞ」

佐竹家の出自は第五十六代清和天皇から出た清和源氏の源義光[新羅三郎]を祖とする平安の頃からの名族なのである。義重は同じく義光から出た甲斐武田家の信玄とどちらが源氏の嫡流かを争ったことがある。互いに自己主張し決着はつかなかったようである。

話を戻そう。

目録を見ていた義重は「倍にせよ」とこともなげに言った。

  

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