一九一四(大正三)年に第一次世界大戦が始まり四年にわたって長引くと、世界中の景気が悪くなっていった。次第に鮭漁も低迷し、以前の勢いがなくなっていった。よく売れていた日本の掛け軸や壺・花器などの美術品も、売れ行きが悪くなり商売に陰りが見えてきた。
一九二二(大正十一)年、万蔵が結核に斃(たお)れ病院で療養中に、自慢のビルが火災に遭い、日本からの美術品や現金がすべて灰になってしまった。
全財産を失った万蔵は、駆け付けた息子たちに後を託し、失意のうちにサヨを伴い日本に帰国した。口之津町の人々は、そういう万蔵を温かく迎えてくれた。しかし、長崎での療養も功を奏さず、一九二四(大正十三)年、「サーモン・キング」「カナダ大尽」と呼ばれた永野万蔵は、七十歳でその数奇な人生に幕を閉じた。
万蔵が最期を迎えた病室の窓から、太陽に照らされた春の海がキラキラ輝いて見えた。視力の落ちた万蔵の目には、それが川を遡る鮭の大群に見えたのだろう。右手を差し伸べて、
「おーい、鮭だ、鮭が来たぞー」
と叫んだ。それが万蔵の最後の言葉だった。
一九七七(昭和五十二)年、カナダ各地で日系カナダ百年祭が行われた。カナダ政府地図委員会は日加友好のために、日系カナダ移民第一号の万蔵に敬意を払い、万蔵が住んでいたロッキー山脈のオウェキノ湖の近くの二〇〇〇メートルを超える山に、『マウント・ナガノマンゾウ(永野万蔵山)』と名付けた。
二〇一八(平成三十)年に活躍した、遅咲きのフィギュアスケートの新星と言われるカナダのキーガン・メッシング選手は、万蔵の玄孫(げんそん)(やしゃご)に当たる。キーガン選手の活躍で日系カナダ移民第一号となった永野万蔵の働きに再びスポットが当たり、注目された。
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