「万蔵がえらい羽振りがよくなって帰って来たぞ。外国で働くと儲かるばい」どこからか噂を聞いて、口之津の人々は万蔵に外国の話をいろいろ聞きに来た。
万蔵はカナダの鮭漁の話をして「儲かるぞ」と言うと、一緒に行きたいという若者が現れ、何人か連れて行くことになった。彼らは旅費を出せなかったので、船員見習いとして釜炊きなどをしながらカナダまでの長い航海を精出して働いた。そしてやっとカナダにたどり着いた。
一八八五(明治十八)年に、中国からの出稼ぎ労働者を低賃金で多数酷使して、ようやくCPR「カナディアンパシフィックレールウェイ(カナダ太平洋鉄道)」が完成した。大西洋から太平洋までカナダ大陸を汽車で横断できるようになると、人々の動きはいっそう活発になっていった。
万蔵が日本からカナダへ戻ったのは、そういう時期だった。連れて行った若者たちは、その頃鮭漁が盛んになりつつあったので、すぐに働く場所を見つけることができた。
万蔵はカナダへ戻るとアメリカのシアトルで小さなタバコ屋を開き商売を始めた。シアトルには日本人が次第に増えつつあった。レストランを開店し順調に商売を広げていった。
一八九二(明治二十五)年、カナダに戻り、ビクトリア州の州都ビクトリアで商売を始めた。翌年ツヤと結婚し娘のハルが生まれるが、ツヤはハルの出産と共に亡くなり、ハルも後を追うように六日後に亡くなった。万蔵の悲しみは大きかったが、いつまでもくよくよしてはいられなかった。悲しみを紛らわそうと、益々商売にのめり込んでいった。
後に万蔵はサヨと再婚し、長男ジョージ辰夫、次男フランク照夫が生まれた。
万蔵は次々に手広く事業を展開し、日本人の先駆けとして生計を立てていった。何といっても一番大きな商売は、塩鮭を生産・加工して日本への輸出に成功したことだった。
バンクーバーの大通り沿いに、ホテルや三階建ての永野商会ビルを建て、日本人クラブを作り日本人の利益を守ろうと奔走した。
しかし、その頃にカナダでは次第に増えるアジア人(日本・中国・インドなど)を恐れ、アジア人を排斥しようと暴動が起きた。