蓋開
「いえ、大丈夫です」
雪子はゆるりと目を細めた。痛いという感覚はよく分からない。子供の時からだ。転んで膝を擦りむこうと包丁で手を切ろうと、なにも感じなかった。無痛症という疾患なのだと、昔ある人に教えられた。
「我慢しなくていいのよ」
明美が背中をさする。「痛くて死にそうだ」とでも答えたら、明美は満足なのだろうか。「痛いからどうにかしてくれ」と言われたら、どうするつもりなのだろう。
大仰に眉を顰める明美は、彼女こそが怪我人のようだ。そんなに心配するなら、明美がじきじきに田所の相手をすればよかったのに。
雪子は溜息を殺して保険証を受付で出した。受付の女性は血だらけの雪子の姿に大げさに驚いたが、待合室ではかなり待たされた。
その間中「大丈夫?」「もう少しだから」などと明美が励ますので、雪子はひどく窮屈だった。上手く言いくるめて追い返せばよかったと後悔しながら、すり減ってきたパンプスのつま先ばかり眺めていた。
幸い公務中の怪我ということで労災は下りたが、被害届は出さないように上司から指示された。大げさに心配されても面倒なので、伸親には怪我のことは黙っておいた。
その後、田所は事件から三日とあけず市役所に顔を出した。
三島が不在でまたしても雪子が対応に当たったが、田所はなにごともなかったかのように下らない文句を二時間も吐き、「税金泥棒」とお決まりの捨て台詞を残して帰っていった。雪子はそれらの文句を、微笑みすら浮かべて聞いていた。
「偉いわねぇ、雪子ちゃん」
例によって田所が帰るのを見計らい、明美が猫なで声で近づいてくる。