「なにがですか?」
「ちゃんと田所さんの対応して」
「まぁ、田所さんもお客さんですから」
「雪子ちゃん、あなた本当にいい子ねぇ」
明美が大げさに涙ぐむ。
いくら小柄で童顔だからと言って、大の大人に向かって「いい子」はないだろうと内心突っ込みつつ、雪子は曖昧に笑い返した。人に傷つけられても「大丈夫」と笑っている人間がいい子だなんて、ものすごい価値基準だ。
「親御さんには自慢の娘でしょう」
「いえ、そんな」
雪子は首を横に振った。親に褒められたことなど、ただの一度もなかった。テストで満点をとろうが、写生大会で賞を貰おうが、母は鼻で笑うだけだった。そのくせよその親から雪子が褒められると、「全然、出来の悪い子で」「とくに口うるさくなんて言ってないんだけど」などと口では謙遜しつつ、得意げな顔をするのだ。
親にとって子供は自分を満たす道具の一つでしかない。親に恵まれたとはいえない雪子にはそう思える。優秀であれば自慢の種にして満足を得る。さして出来のよくない子でも、子供がいるだけで人並みの社会人である証明にはなるし、老後の面倒くらいは見させられる。そんなものだと思うのだ。明美は自分の子供を褒めたりしているのだろうか。
世の中、相手を利用してどれだけ自分が快を得られるかがすべてだ。いい人という言葉には常に、「自分にとって」という接頭語がつきまとう。
とはいえ、利己心を表に出すのはあまりに浅ましいし、皆が利己を求めるとホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」状態になり、社会が滅茶苦茶になってしまう。だから皆、人は他を尊び、思いやれる生き物であると思い込み、そう振る舞おうとしている。
「それにしても田所さん、雪子ちゃんに怪我させたっていうのに、平然と来たわね」
「そうですね。ちょっとどうかと思います」
雪子は軽く眉を寄せてみせた。
田所が窓口で暴れたり、職員につかみかかったりしたことは今までにも何度かあった。
だが今回の件も含め、市役所は警察に被害届を出していない。市民のためなら職員は多少我慢をしなくてはならない、などという狂気じみた奉仕の精神の押しつけには正直、辟易とする。傷害罪で刑務所に放り込んでしまえば平穏な日々が約束されるというのに、そうしないのはあまりに不合理だ。