母はようやくパンに手を伸ばした。一口齧る。二口、三口、よほど腹が空いていたのだろう、そのままムシャムシャと一つ平らげる。
「ねぇ、おいしい?」
「まぁまぁね」
その割にはがっついていると思ったが、雪子はなにも言わなかった。母が娘を褒めないのは、今に始まったことではない。
「一人暮らしで不便はない?」
「なによ。気持ち悪い」
「お父さんが病気で死んで、もう三年になるでしょ。寂しいとか、いろいろあるんじゃないかと思って」
「気楽なものよ」
「そう、だったらいいけど」
決して仲のいい母子関係とはいえなかった。それでも心配くらいするのが、親子というものだ。
「私だって、いつだって気にはかけてるのよ」
雪子は静かに微笑んだ。
翌朝、出がけに確認したら、夜のうちに玄関先に置いておいたパンの半分はなくなっていた。愛犬の拾い食いをなんとも思わない飼い主らしい。
足取りも軽く職場に向かう。
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次回更新は1月27日(月)、22時の予定です。
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