第一章 夢はいつか海外で
海外留学というアイデア
第二部では希望する国ごとに分かれ、国ごとの詳しい説明と質疑応答が行われる。私は最初、中国、途中からインドネシアのコーナーに参加した。留学を就職につなげるのであれば、留学先は中国かインドネシアに絞られる。
インドネシア語はゼロからのスタートとなり、この歳で新たな言語をマスターする自信はない。再び中国かインドネシアか悩んだが、結局、自分が住んでみたいインドネシアに決めた。
知り合いの経営コンサルタントの「現地に行けば、日常会話くらいできるようになるよ」という言葉が背中を押した。
留学斡旋エージェントのホームページを閲覧していると、アジア留学の相談会が十二月に東京の目黒で行われるという案内が出ていたので、すぐに予約を入れた。
インドネシアの留学先はいくつかあったが、私は、その中からジャカルタ近郊のデポック市にあるインドネシア大学の外国人向けインドネシア語コース(BIPA)を選択した。
インドネシア大学はジャカルタに近く、留学中に仕事を探しやすいうえ、インドネシアでトップレベルの大学なのでカリキュラム、指導陣が信頼できると考えたのが主な理由である。
担当者から入学やビザの手続きの説明を受けたが、複雑で煩わしそうであった。現在、仕事をしており、インドネシアに知り合いがいないうえ、そのエージェントの事務所が大阪であるという理由から、多少費用はかかったが、「手続き一切お任せコース」を申し込んだ。
二〇一一年一月末、「退職届」に「二〇一一年六月末を以て退職する」と記入し、一月に着任したばかりの上司に提出した。選択定年制の適用は月末の年齢が五十八歳以下であることが条件で、私の場合、二〇一一年年六月末が退職のリミットであった。また、六十歳を過ぎると、多くの私より優秀な定年を迎えた人と競争になると思い、なんとか五十代のうちに仕事を決めたかった。
三十五年間勤務したこの楽器・音響メーカーを、私は今でも素晴らしかったと思っている。当然、勤務している社員は様々な個性を持っているが、この企業には最高の品質を追求し、ごまかしを排除し、信用とコンプライアンスを重視する風土があった。
私にとって、そのような環境の下で三十五年もの長い間仕事をできたことは幸せであったし、この風土は私自身の生き方にも大きな影響を与えているように思う。