バースデーソングは歌えない。

3 抱擁 〜喜美子〜

自分以外の存在がすぐ隣にあることを、少女の頬に生えた細かい毛が喜美子に感じさせる。そして、少女のうなじから漂う、少女独特の甘ったるい匂いに打ち負かされた。可愛さが生きている。少女が大きくあくびをすると、あのバーでは気が付かなかった小さな八重歯が覗いた。

喜美子の心が回転した。「あたしのどこが好き?」なんて訊かれたら、決して言葉にできず、とにかく全部好き!としか答えられないだろう、とファンタジックな気分にそそのかされ、ニヤついてしまう。

半年前に書きかけたままほっぽった日記帳の赤いカバーを思い出すまでに、昨晩から今までの出来事は鮮烈なものだった。喜美子も欠伸(あくび)をし、カウチソファに寄りかかって一息ついた。

目を覚ますと少女の姿はなかった。眠気は一気に引いて、閉所恐怖症に似た胸の圧迫感を感じた。玄関にスポーツブランドのスニーカーはなく、施錠はされていなかった。体重でドアを押し開け廊下に視線を走らせたが姿を認められないのは予想内で、喜美子は肩を落として再び持て余した体重をソファに預けた。

しばらくすると、時の流れは元に戻り、土曜の日中にもかかわらずもう週明けのことを考え始めていた。何か大事なメールが来ていないか、とテーブルに張り付いたスマホを拾い上げるとロック画面に通知が浮いていた。

《ごめんね、友だちと約束してて(ぴえん)/新宿帰るね(汗)》

不安は燃え、蒸発していく。

《びっくりしたよ(笑)また、いつでもおいでね(にこにこ)》と指を滑らせてから、後半を削除して入力し直す。《―つぎはいつ来られる? 美味しいもの用意して待ってるよ(にやり)》

自分が相手に対して好意を抱いていると表明すれば、断られたときに受けるダメージは大きくなる。喜美子の心は非常に脆(もろ)いけれど、だから「八方美人」でこれまで生きてこられたのだ。

だが、今この瞬間が余生の丁字路(ていじろ)、少女とのかつてない関係性が、間延びした日常を解体するかもわからない。その欲望を素直に認められればいいものを、「少女が心配」だという「お利口さん」意識が隠してしまう。これが喜美子の思考の癖であった。喜美子は、少女に救いの手を差し伸べている、もう一人の自分を自分に憑依させていた。