「ここは登り返せる」と言って鬼島は、懸垂下降用の二本のロープのうちの片方のロープを引いた。すると、もう片方のロープの末端がスルスルと上方に上がっていき、やがて先ほど通した上方のスリングの輪をすり抜けて落ちてきた。
鬼島がさらに下方に向かって「大丈夫か!」と怒鳴ると、先ほどよりはっきりと声が返ってきた。
もう一度先ほどと同じように、ダケカンバの木に巻きつけられたスリングの輪に結束された二本のロープの一端を通し、その二本のロープをまとめて下方に投げた。
そしてまた鬼島が懸垂下降を始めた。しばらくするとハーケンを氷壁に打ち込む音が響き、それが終わるとまた下方から「下りていいぞ!」という鬼島の怒声が聞こえ、川田もまた懸垂下降で続いた。下降をしていくと氷壁はこれまでよりも傾斜を増し、垂直を越えてオーヴァーハング(岩壁の上部に突き出た岩、張り出した岩のこと)を形成していた。
そのオーヴァーハングの下には氷壁から突き出た半畳ほどの岩の突起があり、そこに鬼島と滑落者がいた。
鬼島は先ほど岩に打ちつけたハーケンに結束されたスリングにセルフビレイを取っており、その横でへたり込んでいる滑落者のハーネスからも別のスリングが結束されてセルフビレイがとられていた。セルフビレイが取られていれば、もうそれ以上滑落することはない。
滑落者は、昨夜テント場でスコップを借りに来た若者で、身体を激しく震わせていた。ヘルメットは傾き、ウェアには草や木、岩などで擦った傷跡が惨(むご)たらしく刻まれていた。
【前回記事を読む】一瞬の烈風、雪面を掻きむしる音と悲鳴。雪煙とともに池ノ谷めがけて滑り落ちていく男二人。「鬼島さん!やつら落ちましたよ!」
次回更新は1月12日(日)、8時の予定です。
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