「無理だろ、この天気じゃ」
鬼島は無線機をしまうと「滑落したやつらを担ぎ上げるかもしれないからザックを一つにするぞ」と川田に言って、救助に必要な道具だけ鬼島のザックに詰め込み、残りを川田のザックにしまってその場に残置した。
そして「やばそうだったらユマーリング(アッセンダーなどを用いて固定されたロープを登り返す技術)で戻るからよろしく」と言って、川田が谷底に向かって投げた二本のロープに下降器を取りつけ、懸垂下降を始めた。
鬼島は程なく断崖の際から消えた。人の気配が消えると、風雪の擦過音と自分の心臓の鼓動が響くだけだった。鬼島の全体重がかかったロープは目一杯伸びて張られ、そのロープがかかったスリングも張られていった。しばらく張りつめ続けていたが突然緩み、断崖の下方から「降りていいぞ!」という鬼島の怒声が吹雪にかき消されながら届いた。
川田もロープに下降器を取りつけて懸垂下降を始めた。ブーツに装着したアイゼンの爪が、雪と氷の間から露出した岩を掻く金属音が響いた。岩溝から疎らに生えるダケカンバをよけながら下降していくと、すぐに氷壁は垂直に近くなったが、まだダケカンバの木も疎らに生えていた。
これなら何かあってもダケカンバの木や岩角を使って登り返せるだろうと、川田は自分に言い聞かせるように確認しながら懸垂下降を続けた。横殴りの風雪は、白く目の前を掠めた。氷壁には、叩きつける風雪が作った「エビの尻尾」という雪塊が無数にこびりついていた。エビの尻尾は固く氷化しているため、アイゼンすら滑らせた。
バランスを崩さぬようロープを送り出して下降を続けると、やがて鬼島のウェアの蛍光色が見えてきた。鬼島は、岩溝からそそり立つダケカンバの木にスリングを巻きつけ、それにデイジーチェーンをかけてぶら下がっていた。川田は鬼島の隣に下り立ち、同じスリングにデイジーチェーンをかけ、セルフビレイを取った。そして下降器からロープを解いた。