生米、味噌、生野菜云々を大人数で分担して巨大なキスリングザックに詰め込み、大パーティーで行軍していた昭和五十年頃までに比べれば登攀の可能性は格段に広がったと言える。とは言え、やはり自分の体重以外の重量を担ぎながら動くというのはかったるいもので、朝から行動し、午後も深まれば肩に食い込むザックの重さもひとしおだった。

藪の薄くなっているところを掻き分けながら小尾根の向こう側に進むと、下り傾斜がきつくなり、やがて藪が晴れ再び白萩川が眼下に姿を現した。白萩川岸まで、バージンホワイトの雪面を一気に下る。

上りに比べ、下りはそれこそ地獄と天国の差で、雪面に足を踏み出すというよりは重力に任せ身体を投げ出し落ちていく気分で進むことができる。鬼島と同時に急雪面を下ると二人分の体重で雪崩が起きる可能性があるので、先を行く鬼島と距離を保ちながら、川田も白萩川へ下っていった。 

白萩川岸に下り立つと、再び微かな先行パーティーのトレースを確認することができた。やはり先行パーティーは、定石のルートどおり取水口から白萩川沿いを進んできたのだ。川岸の雪は深く、一気に腰まで雪に埋もれる。先行パーティーは、この深い雪の河原を取水口から二人でラッセルしてきたのだから、相当に時間がかかったであろう。

対岸には、池ノ谷が白萩川に落ち込んでいる。池ノ谷とは、この白萩川から剱岳に向けてせり上がる谷で、上部では剱尾根によって右俣と左俣に分けられている。左俣は、小窓尾根を右岸、というよりは切り立った右壁とし、三ノ窓を掠めて池ノ谷乗越に至っている。一方右俣は、剱岳本峰に直接突き上げている。

そのような池ノ谷は、谷全体が深く切り立った壁に仕切られ上部では急峻な絶壁となるため、昔はおおよそ人間の近づく領域ではないとされていた。そのために「行けぬ谷」と呼ばれ、それが訛って「池ノ谷(いけのたん)」と呼ばれるようになった。