第二章 小窓尾根

パチンコをやるには晩秋から準備が必要であった。

予備日や停滞日を考えると山行期間は二週間から二十日程度になるため、必要なすべての食料を担ぎ上げるのは不可能であり、奥穂高岳近辺や槍ヶ岳近辺の各ポイントにあらかじめ補給用の食料を設置しておく、所謂「デポジット=デポ」の必要があった。本番では、それらデポを回収し食料を補充しながら山行を続けることになる。

川田は、そのデポを置きに行く秋の山行に付き合った。ところが、デポの設置も終え、いよいよ冬に入る十二月に、鬼島と同行するはずであった二人が突如計画から脱退したのだった。原因は、その二人に言わせれば鬼島の独断であり、鬼島から言わせれば二人の考えの甘さだったが、川田から見れば、要するに山行を計画する際の、諸々の意見の相違であった。

居酒屋や喫茶店で頻繁に行われた話し合いには川田もつき合っていたので、その顛末の一部始終を見ていたが、決裂のきっかけは些細なことで、深雪の対策としてワカンにするか軽量のスノーシューにするか、またはそれらを使わずに最後までがんばるか、幕営具については厳冬期用のテントにするか、より軽量で簡易型のシェルターで済ませるか、燃料についてはホワイトガソリンにするか極低温でも燃焼性能が良いLPガスにするか、さらにそれを何日分用意するか、食料はフリーズドライの軽量なものにするか重量は増すがそれ以外のものも混ぜるかといったことで、最初から三人の意見が一致するわけはなく、ならば折衷点を見出せば良いものの、結局すべての決定事項について鬼島が自分の意見をゴリ押しする形で進んだ。

最初は耐えていた当該二人も生粋の山屋の本質とも言える頑固さはどうにも緩み切らず、溜まりに溜まった不満がとうとう堪忍袋の緒をブチ切り、決裂を申し出たのであった。

鬼島がそういう男であることを川田は十分承知し、理解していた。サラリーマンであり組織人である川田は、集団の中でいかに妥協するかという文化にどっぷり漬かっているので、あくまで我を通す鬼島のやり方に出会った当初は辟易したものの、最近では程良い距離を置くことで微妙なバランスを保つことができることを発見していた。

そして、そういった激しい人間性に耐える価値を感じられるほどの、鬼島の抜群の登攀能力があった。人間離れした体力と、どのような逆境にも動じない精神力、アルパインクライマーでありながら、フリークライミングにおいても五輪選手レベルに匹敵するような高難度ルートを登り切る技量、そして登攀に対する揺るぎない自信。