すべて川田の持たない能力であり、たとえ自分がサラリーマンをやめ、生活のすべてを山に没頭したところでそれほどの能力を会得することはできないだろうという自覚が、鬼島に対し、憧れとも嫉妬とも尊敬ともつかない複雑な感情を形成していた。そしてそれが、川田が鬼島から離れない要因となっていた。

しかしながら、程度の差こそあれ、山屋は鬼島のような人間か、少なくとも鬼島の気質の片鱗を兼ね備えた人間が多く、そんな人間が二人以上集まればしばしば衝突が起こった。

鬼島と一緒にパチンコをやろうとしていた二人に言わせれば、他人の意見を聞かず、あくまでも我を通す鬼島であれば、もしもアタックの最中に危険に遭遇し、何らかの状況判断を下す場面があったとしても他人の意見を聞かないだろうから危なすぎる。よって「止める」と叫び、腹いせに山仲間にこの顛末が鬼島のせいであると吹きまくりつつ消えた。

かかる経緯により、直前でパチンコ計画は消滅した。十二月ともなれば厳冬期の山行のために新たなパートナーを探すこともままならず、さすがの鬼島もパチンコはあきらめ、パチンコよりは大分難易度の低い剱岳の小窓尾根ルートの計画を、川田に持ちかけてきたのであった。

小尾根の上に達し、ようやく休憩となった。ザックを下ろしてその上に腰をかけ、自分の上気した身体から出る湯気を感じながら、この標高であればまだ凍らないポリパックの水筒の水を飲んだ。大きく息をつき、深雪に覆われた樹林と、木々に差し込む光を見渡すと、もう午後の陽の傾きが顕著に感じられるようになっていた。

「今日はどこまで行けますかね」と川田が呟いた。

鬼島はサーモス(魔法瓶)の蓋に注いだ茶を片手に、行動食(登山中に手軽にエネルギーや栄養を補給するための食べ物。携行食)の羊羹を口にしながら考えるように一呼吸おいて、

「いいところ一,四〇〇メートル地点くらいだろうな」と言った。そしてもくもくと羊羹を噛んで、それを茶で胃に落とし込んだ。羊羹は血糖値を下げないために有効な行動食である。

「この先の雪の状態次第だな。雷岩で突っ込むかどうか判断する」

自分の考えに迷いのない力強い口調は、いつもの鬼島のリーダーシップだった。

  

【前回記事を読む】意を決して「休憩しませんか?」と前を行く彼に声をかけた。だが彼は、振り向きもせず、足を緩めることもなく、先に進んで…

次回更新は1月3日(金)、8時の予定です。

 

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