池ノ谷は、その末端である白萩川への落ち口でさえ、来る者を拒むようにそそり立つ岸壁に仕切られ、上部の峻険な断崖を予告していた。川田はその末端を見て、なるほど「行けぬ谷」と呼ぶにふさわしいものだと思った。
腰まで雪に埋まる白萩川の右岸を遡行(そこう)する。冬至をわずかに過ぎたばかりの落日は早く、既に谷は深い紫色に染まり始めた。
鬼島はしばしばラッセルの動きを止め、小窓尾根の末端である左岸側の斜面の形状を観察した。そして「あそこが取りつきだな」と、尾根というより急峻な雪壁を指差しながら言った。
川田も鬼島が指し示す斜面の形状を、目を凝らして観察した。陽がいよいよ深く傾いたため光量は辺りを照らすに足りず、その雪壁に先行パーティーがつけたトレースを視認することはできない。登り口は急峻なルンゼ(沢状の地形)で、いかにも雪崩が起きそうであった。
鬼島はしばらく動きを止め、その小窓尾根の取りつきを見据えていた。そして、
「気温も下がって雪も締まってきたし、一気に上がってしまおう」と言った。この雪壁を登り、今日中に一,四〇〇メートルピークまで上がってしまおうということだった。
白萩川から雪壁に近づいた。雪壁のど真ん中を登れば雪崩の危険が高まるので、鬼島は雪壁末端を左端に向かって進んでいった。途中で川田がラッセルの先頭を交替した。川田も雪壁の左端を目指して進んだ。あと少し、あと少しと足を振り上げていくと、突然身体が傾き、胸まで雪に埋まった。
「うわ、はまった!」
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次回更新は1月4日(土)、8時の予定です。
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