第1章 闇の入口

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時間は刻一刻と進む。

十八時五十六分。

お前の体は右に傾(かし)ぎ、今では絨毯に横たわっている。その背中に愛猫が張り付くようにして眠っており、そこだけ切り取れば何の変哲も無い日常に見えた。

お前は眠っているのだろうか。

椅子から離れてお前に近寄る。愛猫を起こさないようにしゃがみ込むと、僕に背を向けているお前の顔をそっと覗き込んだ。マスクも眼帯もガーゼも何もかもそのまま、お前を認識できる範囲が狭まっている中、唯一左目だけが開いている。

相変わらずその目からは一筋、細く涙が伝っていた。流れ落ちて行った先は右目の眼帯で、凝視すると少しだけ濡れていた。  

痛むのだろうか。苦しいのだろうか。辛いのだろうか。それを伝えられもしないのだろうか。だからこうやって静かに泣くのだろうか。

頼む、何か言ってくれ。

「なぁ、何か言って」

今度は僕が泣く番になってしまう。

お前が泣くと僕も辛い。僕も苦しい。そんなのは嫌だ。でも今は、絶対僕よりお前の方が辛いし苦しい。なら言ってくれよ。伝えてくれよ、教えてくれよ、お前に何があったんだ? 何か言ってくれよ、泣くだけなんておかしいだろう、お前、お前。

そっと肩に触れる。あの病院に居た女の子が母親の膝に両手を添えるように。振り払われるかと思った。また、あの目で突き刺されるかと身構えた。

手は振り払われなかった。

お前が緩慢な動きで顔をこちらに向ける。

左目が、僕を見た。

いつもよりずっと低く掠れた声が不織布を通して僕の耳に聞こえてくる。

僕はマスクに耳を近付けた。

「痛い? 僕どうしたらいい?」

しばらく小さな熱を耳元に感じて、お前の次の言葉を待った。愛猫が伸びのついでに僕の足を蹴っ飛ばす。

僕の耳に、脆弱(ぜいじゃく)な子供のような声が届いた。

 「一人になりたい」