八月七日 午後三時五十分頃 ハルビン キタイスカヤ モデルンホテル
雪舟とエドゥゲーフ、アイザックは、ニコライの部屋を出ようとしていた。先頭にいたエドゥゲーフが入り口のドアノブに手をかけた、その時、雪舟の背中にニコライが声を掛けた。
「雪舟!」
雪舟は、振り向いた。
「お前は、この中で、ただ一人の日本人だ。ただ、お前は、日本人としては立場が特殊で、お前が日本人であることを知らない現地人も多い。だから、なんとか、これからの苦境を切り抜けられるかも知れん。もし、俺がお前の役に立てるようなら、出来る限りの協力はする。だから、遠慮なく相談してくれ」
ニコライは雪舟に右手を差し出した。
「悪いな、ニコライ」
雪舟は、そのニコライの右手を握った。。
奥の部屋から、リブカが出て来た。
リブカの顔には笑顔はなく、その表情は、張り詰めていた。
「雪舟。私達、ユダヤ人は、世界各地で過酷な迫害を受けてきました。世界中で、多くの同胞が命を落としました。そして、この大戦でも、ヨーロッパでは凄まじい数の同胞が虐殺されました。
そして、今、あなた達、日本人が、この満州で、かつての私達と同じく恐ろしい運命をたどろうとしています。日本陸軍は、中国や朝鮮の方々にひどいことをしてきました。
でも、普通の日本人、特に女性や子供たちには、何の罪もありません。そして、雪舟、あなたにも。
あなたは、本当に心の優しい人です。あなたが、祖国を敵に回してまで、弱者のためにとってきた行動は、とても立派なことだと思います。そして、あなたは、私達、家族にも常に親切に接して下さいました。どうか、神のご加護を……」
雪舟は、しばらく黙って、リブカの顔を見つめた。
「ありがとう……。リブカ」
三人の男達は、部屋をあとにした。
八月七日 午後四時頃 ハルビン キタイスカヤ路上
キタイスカヤを挟んで、モデルンホテルの真正面にあるマルスから、ハル達が出て来た。
キタイスカヤは、石畳の往来を行き来する車の走る音、クラクション、歩道を歩く人々の足音や話し声、笑い声……、相変わらずの賑やかさだった。
松浦洋行は、通りの同じ側の少し北にある。三人の馬賊の男達が現れた交差点を渡ってすぐのバロック様式のビルだった。彼女達は、早速、北へ向かって歩き始めた。
ほんの少し遅れて、真正面のモデルンホテルの入り口から、雪舟達三人が出て来た。
ハル達は、少し先に進んでおり、斜め後ろの彼らに気付かず、松浦洋行の店内に入って行った。三人は、めいめいの馬のところに戻った。夜遊び好きのエドゥゲーフは、とりあえず、今夜のお楽しみのことしか頭にないようだ。
「今夜は、キャバレーでロシア人の女の子と飲み明かすかな」
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