「そういうふうにうたった歌人がいたの」

「訳わかんねぇや」

思い詰めていたかと思うと軽口をたたく。不思議な人だ。下膨れの顔に太い眉。福笑いがうまくいったときみたいな顔になっている。

「ここ一週間くらいかな、近所で同じ顔を三回も見かけたわ。朝一回、日が落ちてから二回。一度はうちの玄関先で」先生はさらに声を潜める。

「男?」

「ううん、女性よ。びしっとスーツ着て、黒いショルダーバッグを提げて、でも靴はスニーカー。逃げ足が早そうな感じ。この辺の人じゃないなってすぐわかったわ」

「いくつくらい?」

「わたしより若いな。三十代半ばってところかな。三度目に見かけたときは、かなり焦ったようだったわ、あ、見られちゃったって感じで。わたし、笑顔で挨拶してやった」

「バイトの探偵なんだろ、きっと」

顔を見合わせて笑ったが、そういう可能性も十分にありうるな、と薄ら寒い気分になる。先生とて同じだろう。

「布団、持ってこなくていいよ。俺、自分で買うから」

先生は決めかねたような表情で曖昧にうなずくと、カーテンを少し開けて下の通りを覗いた。俺の部屋の真下が大家のうちの玄関になっている。そこはちょうど細い私道の突き当りにあたり、表通りからこちらへ入ってくる以外、アパートに近づく方法はないから、えらく見通しがいい。

「誰もいない……みたい」

「今日はその女、現れないよ。いろよ、もうすこし」腕を取ると、先生はベッドの端に浅く腰かけた。

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次回更新は12月9日(月)、21時の予定です。

 

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