実はこれには前段がある。

それは七月の第三次九条内閣で古代氏が去る前後のことだったが、我輩のご主人が対外交渉に慣れた外交のプロの派遣を要請していた。

状況から見て経験豊かな大物外交官が来てくれるかどうか不安だったが、「肩書はあるが責任はない」という条件なら誰かいるだろうと踏んで助っ人の派遣を請訓していた。今回の派遣はこの請訓に応えたものだった。

そうして送られてきた〝強力な助っ人〟こそ、誰あろう、前駐独大使で日独伊三国同盟の調印者でもあった黒須険一(くろすけんいち)氏だった。黒須氏の名前を電報で受け取った瞬間、我輩のご主人の顔は再び憂色に包まれた。

「助っ人の派遣には感謝するが、この人選は無いだろう。まるでブラック・ユーモアだ。ケン坊、そうは思わんか?」と次第に怒りが込み上げてきたらしく、いきなりバーボンを一気に飲み干した。

激しい口調は続く。

「この人選は米国政府に対する嫌味と同時に儂に対する不信感の表れだな。米国が日本に『三国同盟の離脱または有名無実化』を要求していることを分かり過ぎるほど分かった上で、その調印者を派遣するということは日米交渉を決裂させよという意図か?」と外務省本省及び北里外相への怒りは収まらない。思わず手にしたバーボングラスを床に叩きつけんばかりの怒りようだ。

我輩は無意識の内に一瞬ピクッと体を動かせて防御態勢を取った。この防御態勢を取ることには昔から慣れている。

幼少の頃、当時の飼い主が夕食時にカッとなっていきなり子供に向かってお茶碗を投げつけた。子供は慣れていたのかヒョイと上手に躱したが、子供の真後ろにボ~ッと鎮座していた我輩は躱し切れず、そのお茶碗が我輩の額に当たり瘤を作って痛い思いをした経験がある。

家庭内で父親の権威が高かった当時の日本の一般家庭ではよく見られた風景だった。

以来、歴代の我輩の飼い主が手にするお茶碗、ビール、バーボン、ワイン等のグラス類がいつ飛んできてもヒョイと躱せるように自己防衛の訓練をしてきており、今回も日頃の訓練の賜物で思わず自然に体が動いたようだ。

 

【前回の記事を読む】走る緊張感。米国からの資産凍結、石油の禁輸。迫る一国をかけた決断!

 

【イチオシ記事】「リンパへの転移が見つかりました」手術後三カ月で再発。五年生存率は十パーセント。涙を抑えることができなかった…

【注目記事】店が潰れるという噂に足を運ぶと「抱いて」と柔らかい体が絡んできて…